生き方の哲学ー5・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」7月号より)
生き方の哲学ー5  浦蘭 嶋多朗 「みおつくし」7月号より
貧乏な生活はお金が無くなれば底を打ち、それ以下にはなりようがありません。
お金持ちの生活は上には上があり、限りなくお金が欲しくなります。
幸せは自分自身の心の中で強くなったり弱くなったり、大きくなったり小さくなったりします。
貧乏な生活をしていても、その中で小さな幸せ、中くらいの幸せ、大きな幸せを見つけだし、自分の幸せは自分でいくらでも変えられます。
幸せは自分の中にあるのに、自分の外を見ようとするから幸せに気がつかずに、自分は不幸だと思いながら一生過ごしてしまいます。
自分が幸せか不幸せか、これは自分が決める自分への評価です。自分自身は自分が作れるものだという事を知ることが生きていく上で最も大切です。
人生における様々なやりとりは全て映像です。それらの映像を自分がどう捉えるかによって良くもなり、悪くもなるでしょう。
自分自身を決めるのは自分です。社会でもないし環境でもありません。あるがままの現実を受け入れ、その中で自分に見合う幸せを見つけだせばいいだけです。
すべては自分の思考から作り出される映像であり、世界です。
たとえ何もかもすべてを失い、希望も夢も目的、目標を見失ったとしても、その時は第二の人生、第三の人生を新たに作れる絶好のリフレッシュチャンスです。
常にいつも自分の中にすべての答があります。周囲の人に求めても何も返ってきません。
自分以外の何かに依存すれば、それらのものに支配されるでしょう。
裕福な生活に溺れていると、欲望の虫がもっともっとお金が欲しいと大騒ぎます。しかし、お金で幸せは買えません。何億円のお金を積んでも買えません。
ある女性が、もっとお金持ちがいい、もっとお金持ちがいいと何度も結婚離婚を繰り返していました。やがて過去を振り返ってみると最初に結婚した相手との生活が、裕福ではなかったけれど一番心も満たされ、いい思い出もたくさんあり、愛情にも恵まれて充実していたことがわかりましたが、後の祭りだったとか。
過去や未来への執着からすべて解放された時に本当の心の平安を感じられます。至福の時と言ってもいいかも知れません。
金銭欲や物欲も満たされ、精神欲も愛情にも満たされ、すべての物事に満たされたパーフェクトな生活を得ようとしても無理なことです。
必ず何かを得れば犠牲はつきものです。いいとこ取りだけして傷つくことを避けたり、リスクを全く負わずに生活することは無理です。
両手がふさがっていれば、もう一つ荷物は持てません。どちらかを手放して持つ以外ありません。
荷物でいっぱいの部屋にもっと荷物を置きたかったら、どれかを処分してスペースを作らなくてはなりません。
人間は勝手な生き物ですから、安定した生活がマンネリ化してくると刺激を求めます。
波乱に満ちた生活を続けると、やがて安定を求めます。
失敗を経験して成功するように、成功すれば今度は失敗の不安がつきまといます。
安全が約束された生活はありません。危険と不安が必ずつきまといます。
コインは裏表で一体というように、いいとこ取りだけ求めることはできません。
理想に近付くためには冒険がつきものです。自由を得るには危険がつきものです。
暗闇を恐れ、幸せの明かりが見えないからと言って恐がり、進む勇気を持たなければ、いつまでも幸せにたどり着きません。
頭の中であれこれ悩んだり考えたりしても、何の答えも解決策も見つかりません。今の自分を生きて、今の自分が行動することによって答も解決も後からついくるのでしょう。
自由な生活を望むなら、危険が伴う大胆な冒険の道を進まなくてはならない事もあります。
自由が無くても安心だけを求めるならば、それは服役生活や入院生活と変わらないでしょう。
他人の生活を羨ましがる人がいます。
「お隣の奥さんいいわね~」「となりのご主人いいわね~」
「会社の社長はいいよな~」「芸能人はいいよな~」
「宝くじに当たった人っていいわね~」「パチンコやスロットルで稼いでる人っていいな~」
「ヒルトンの娘はブランド品腐るほど持てていいわね~」「吉本興業のタレントはバカ話しして大儲けできるからいいな~」
これらの事を独り言でつぶやいている場合は自分が落ち込むだけなのでいいでしょう。
回りに誰かいたり、話しを聞いている人がいる場合は、自分は不幸だ、自分は幸せではないとアピールしているようなものです。
私は自己実現できていない人間です。と言っているようなものです。
あの人のようになりたい、誰々のような生活がしたい、自分以外の誰かになりたいという欲望願望の現れでしょう。
今自分がおかれている状態や状況に不満を感じ、外的変化を求める。
今自分がおかれている状態や状況を受け入れて、その中にある自分に見合った生き甲斐や目標目的、幸せを見出せば内的変化を求めることになり、完全に充実するのです。
自分の器以上の高すぎる理想を求めては挫折するでしょう。どう考えても手が届かない目標を目指しては途中で足を踏み外します。
周囲の人に期待し過ぎると裏切られます。相手に完璧を求め過ぎると人間関係に歪みが生じるでしょう。
今の自分で今を生きることを知れば苦しみや悩みから解放されるでしょう。今の自分以外の誰かで生きようとすれば苦しみや悩みがつきまといます。
自分以外の誰かで生きようとする、ということは自分の外を見たり、過去と未来へのこだわりから生ずる欲望に振り回されるからです。
今の自分をもっともっと信じて純粋の信念を持って生きれば大方の物事における問題は解決します。
しかし、この単純な純粋の信念がなかなか持てるようで持てず、エリート社会で生きようとすると忘れがちになります。知性とプライドが邪魔をするからです。
肝心な自分自身を気にせず、自分を知るということを気にかけないで、他人が自分につけるラベルばかりを気にするから本当の自分を見失い、見えなくなるのでしょう。
そして、他人から見た自分ばかりに気をとられ、自分で自分を見ることをしなくなります。
他人と自分を比較ばかりして明け暮れ、自分が他人より劣っている部分があると自己嫌悪に陥ったり、劣等感を持ち、自信喪失になったり、度を超すと人生の敗北者くらいに考えてしまいます。
このような考え方で生きていると他人の不幸を期待したり、他人の喜びを素直に受け入れられなくなります。
他人の幸せに対して表向きは笑顔で振る舞っていても、心の中では不幸を願ったりしてしまいます。
今の自分で今を生きることを実感できる速攻手段は自然の中で動物達により近い生活をすることでしょうが、都会で生活していればそうもいきません。
次に考えられる手段としては自然界を身近に感じられる環境で自給自足を目標にする生活です。しかし、これもまた都会で生活していればイメージくらいしか体験できません。
または托鉢修行に出かけて山や川を巡りながら生活することもいいのですが、家族があれば長期に続けることは困難です。
結局のところ都会で生活していれば実際に体験することは難しいのですが、そのことを知ることはできます。
電気の無い夜の暗闇を実在として、または病気や貧困を実在として、または自然界の動物達の視点から見た、この世的価値観で生きている人間の生活の中で起きている多くの錯覚の発見など、あらゆるボタンのかけ違いが見えてくるでしょう。
固定した価値観で錯覚したまま判断していると世界が見えなくなります。錯覚を信じ込んだ先入観で物事を捉えると大切なものを見落とします。
しかし、現実の社会ではどうでしょう。芸能人やテレビタレントがうかれて大騒ぎしたり、演出された大笑いやバカ騒ぎしているテレビ番組を毎日見ながらいつの間にか年をとっているのです。
もちろん笑顔で過ごしたり生活に笑いを取り入れることは大切ですが、うかれ過ぎて大事なことを忘れてしまうのはどうでしょう。
貧乏な生活はお金が無くなれば底を打ち、それ以下にはなりようがありません。
お金持ちの生活は上には上があり、限りなくお金が欲しくなります。
幸せは自分自身の心の中で強くなったり弱くなったり、大きくなったり小さくなったりします。
貧乏な生活をしていても、その中で小さな幸せ、中くらいの幸せ、大きな幸せを見つけだし、自分の幸せは自分でいくらでも変えられます。
幸せは自分の中にあるのに、自分の外を見ようとするから幸せに気がつかずに、自分は不幸だと思いながら一生過ごしてしまいます。
自分が幸せか不幸せか、これは自分が決める自分への評価です。自分自身は自分が作れるものだという事を知ることが生きていく上で最も大切です。
人生における様々なやりとりは全て映像です。それらの映像を自分がどう捉えるかによって良くもなり、悪くもなるでしょう。
自分自身を決めるのは自分です。社会でもないし環境でもありません。あるがままの現実を受け入れ、その中で自分に見合う幸せを見つけだせばいいだけです。
すべては自分の思考から作り出される映像であり、世界です。
たとえ何もかもすべてを失い、希望も夢も目的、目標を見失ったとしても、その時は第二の人生、第三の人生を新たに作れる絶好のリフレッシュチャンスです。
常にいつも自分の中にすべての答があります。周囲の人に求めても何も返ってきません。
自分以外の何かに依存すれば、それらのものに支配されるでしょう。
裕福な生活に溺れていると、欲望の虫がもっともっとお金が欲しいと大騒ぎます。しかし、お金で幸せは買えません。何億円のお金を積んでも買えません。
ある女性が、もっとお金持ちがいい、もっとお金持ちがいいと何度も結婚離婚を繰り返していました。やがて過去を振り返ってみると最初に結婚した相手との生活が、裕福ではなかったけれど一番心も満たされ、いい思い出もたくさんあり、愛情にも恵まれて充実していたことがわかりましたが、後の祭りだったとか。
過去や未来への執着からすべて解放された時に本当の心の平安を感じられます。至福の時と言ってもいいかも知れません。
金銭欲や物欲も満たされ、精神欲も愛情にも満たされ、すべての物事に満たされたパーフェクトな生活を得ようとしても無理なことです。
必ず何かを得れば犠牲はつきものです。いいとこ取りだけして傷つくことを避けたり、リスクを全く負わずに生活することは無理です。
両手がふさがっていれば、もう一つ荷物は持てません。どちらかを手放して持つ以外ありません。
荷物でいっぱいの部屋にもっと荷物を置きたかったら、どれかを処分してスペースを作らなくてはなりません。
人間は勝手な生き物ですから、安定した生活がマンネリ化してくると刺激を求めます。
波乱に満ちた生活を続けると、やがて安定を求めます。
失敗を経験して成功するように、成功すれば今度は失敗の不安がつきまといます。
安全が約束された生活はありません。危険と不安が必ずつきまといます。
コインは裏表で一体というように、いいとこ取りだけ求めることはできません。
理想に近付くためには冒険がつきものです。自由を得るには危険がつきものです。
暗闇を恐れ、幸せの明かりが見えないからと言って恐がり、進む勇気を持たなければ、いつまでも幸せにたどり着きません。
頭の中であれこれ悩んだり考えたりしても、何の答えも解決策も見つかりません。今の自分を生きて、今の自分が行動することによって答も解決も後からついくるのでしょう。
自由な生活を望むなら、危険が伴う大胆な冒険の道を進まなくてはならない事もあります。
自由が無くても安心だけを求めるならば、それは服役生活や入院生活と変わらないでしょう。
他人の生活を羨ましがる人がいます。
「お隣の奥さんいいわね~」「となりのご主人いいわね~」
「会社の社長はいいよな~」「芸能人はいいよな~」
「宝くじに当たった人っていいわね~」「パチンコやスロットルで稼いでる人っていいな~」
「ヒルトンの娘はブランド品腐るほど持てていいわね~」「吉本興業のタレントはバカ話しして大儲けできるからいいな~」
これらの事を独り言でつぶやいている場合は自分が落ち込むだけなのでいいでしょう。
回りに誰かいたり、話しを聞いている人がいる場合は、自分は不幸だ、自分は幸せではないとアピールしているようなものです。
私は自己実現できていない人間です。と言っているようなものです。
あの人のようになりたい、誰々のような生活がしたい、自分以外の誰かになりたいという欲望願望の現れでしょう。
今自分がおかれている状態や状況に不満を感じ、外的変化を求める。
今自分がおかれている状態や状況を受け入れて、その中にある自分に見合った生き甲斐や目標目的、幸せを見出せば内的変化を求めることになり、完全に充実するのです。
自分の器以上の高すぎる理想を求めては挫折するでしょう。どう考えても手が届かない目標を目指しては途中で足を踏み外します。
周囲の人に期待し過ぎると裏切られます。相手に完璧を求め過ぎると人間関係に歪みが生じるでしょう。
今の自分で今を生きることを知れば苦しみや悩みから解放されるでしょう。今の自分以外の誰かで生きようとすれば苦しみや悩みがつきまといます。
自分以外の誰かで生きようとする、ということは自分の外を見たり、過去と未来へのこだわりから生ずる欲望に振り回されるからです。
今の自分をもっともっと信じて純粋の信念を持って生きれば大方の物事における問題は解決します。
しかし、この単純な純粋の信念がなかなか持てるようで持てず、エリート社会で生きようとすると忘れがちになります。知性とプライドが邪魔をするからです。
肝心な自分自身を気にせず、自分を知るということを気にかけないで、他人が自分につけるラベルばかりを気にするから本当の自分を見失い、見えなくなるのでしょう。
そして、他人から見た自分ばかりに気をとられ、自分で自分を見ることをしなくなります。
他人と自分を比較ばかりして明け暮れ、自分が他人より劣っている部分があると自己嫌悪に陥ったり、劣等感を持ち、自信喪失になったり、度を超すと人生の敗北者くらいに考えてしまいます。
このような考え方で生きていると他人の不幸を期待したり、他人の喜びを素直に受け入れられなくなります。
他人の幸せに対して表向きは笑顔で振る舞っていても、心の中では不幸を願ったりしてしまいます。
今の自分で今を生きることを実感できる速攻手段は自然の中で動物達により近い生活をすることでしょうが、都会で生活していればそうもいきません。
次に考えられる手段としては自然界を身近に感じられる環境で自給自足を目標にする生活です。しかし、これもまた都会で生活していればイメージくらいしか体験できません。
または托鉢修行に出かけて山や川を巡りながら生活することもいいのですが、家族があれば長期に続けることは困難です。
結局のところ都会で生活していれば実際に体験することは難しいのですが、そのことを知ることはできます。
電気の無い夜の暗闇を実在として、または病気や貧困を実在として、または自然界の動物達の視点から見た、この世的価値観で生きている人間の生活の中で起きている多くの錯覚の発見など、あらゆるボタンのかけ違いが見えてくるでしょう。
固定した価値観で錯覚したまま判断していると世界が見えなくなります。錯覚を信じ込んだ先入観で物事を捉えると大切なものを見落とします。
しかし、現実の社会ではどうでしょう。芸能人やテレビタレントがうかれて大騒ぎしたり、演出された大笑いやバカ騒ぎしているテレビ番組を毎日見ながらいつの間にか年をとっているのです。
もちろん笑顔で過ごしたり生活に笑いを取り入れることは大切ですが、うかれ過ぎて大事なことを忘れてしまうのはどうでしょう。