生き方の哲学―12・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」12月号より) | 占いの館ランプのブログ

生き方の哲学―12・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」12月号より)

生き方の哲学ー12 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」12月号より


あらゆる分野で発展し続けている人間社会ですが、世界各地で燻り続けている戦争は、いつまで経っても収まらないようです。
戦争の無い社会はいつになったら来るのでしょう。


昔、京都へ向かう薩摩藩の西郷隆盛に、ある尼僧が伝えた言葉に「うつ人も うたるる人も 心せよ 同じ御国の 御民ならずや」というものがあります。
大きな意味で捉えると、地球上に暮らす人間同士が、戦争によって殺しあう男の愚かさを、女の立場から言ったもので、男主導の世界の虚しさを訴えているのでしょう。
人類の歴史はオス社会で戦いと争いを繰り返し、自然と一体感を持てずに未だ現代社会でも戦争を繰り返しています。

人間以外の自然社会、生き物の世界では受容性を持ったメス社会によって、自然と一体感を持って維持している。
そしてオス社会の弊害としては、支配、被支配二層構造と世襲、相続の差別社会をつくり出し、不条理、戦争、死への恐怖という人間社会をつくり出しています。

子供を産めないオスにとっての死は自己の消滅で、子供を産めるメスにとっての死は自己の引き継ぎと捉える。
アメリカ合衆国の次期大統領の主力候補者などからも、女性主導社会とか人種差別問題などが感じ取れます。


人生一生勉強、生涯勉強で、10代は学校の勉強、20代は職業勉強、30代は社会勉強、40代は人生勉強、50代は心磨きの勉強、60代以降は魂磨きの勉強。
熟年層になって勉強はすべて卒業したと思ったら大間違いで、人生締めくくりとして、納得できる死へ向かうための勉強が必要です。
いかに生きるかではなく、いかに死ぬかということを自分に問いかけ、心を磨き、魂を磨き、自分に納得しながら死んでいきたいものです。
自然界の生き物や動物と同じように、人間もこの世に生まれてきた以上、死ぬことからは逃れられません。
他のことは知性や科学で逃れられても、死だけは確実な実在です。

人間以外の動物や生き物は知性を持たないため、死ぬということを知らず、意識もせずに、実在で生きています。
人間だけが知性を持ったことにより、死ぬということを知った以上、映像の世界で生きなくてはならないわけです。

死というものを常に意識しながら、今ここを生きなくてはなりません。
どう生きるかが問題なのではなく、どう死ぬかが大きな問題なのです。
言いかえれば、良く死ぬためにはどう生きるかということです。
人間、死ぬ時に全てが決まります。

終わり良ければ全て良し、と言うように人生の大筋は死に方で決まるということです。
生きている過程がどうであったかという内容は、単なる映像に過ぎないわけです。
大金持ちで裕福に過ごしたとか、質素な生活で貧困に過ごしたとか、そんな違いは過ごし方の違いというだけであって、華やかな映像だったか、地味な映像だったか、平凡な映像だったか、波瀾万丈の映像だったか、などの違いというだけで、死を目の前にし、死ぬ瞬間に自分の人生を振り返ったときに、自分の生き方をどう評価するかの基準にはなりません。


死を意識したとき、初めて、どう生きるかを具体的に考えることが出来るのかも知れません。
これらの事柄は誰も教えてくれるわけでは無いわけですから、個人個人、それぞれ一人一人が目覚めるしか無いということでしょう。

兎に角、いずれにしても、社会を改善しなくてはならない事は間違いないわけですが、政界も財界も、教育も宗教も、何もかもあてにはならないというのが現実ですから、個人、一人一人が、それぞれ連鎖しながら頑張るしか無いわけです。

死に対しての認識が未熟であったり、精神や心の器に余裕が持てないと、いろいろ歪みが生じます。
社会への不満、自分への不満、他人への不満、生活への不満、毎日のストレスなどが重なり、蓄積されて自分の器で処理できなくなり、外へ発散されます。
それらのマイナスエネルギーが犯罪やイジメ、虐待などと形を変えて表面化されるのかも知れません。


孤立することを恐れ、孤独感に陥ることから逃れ、バカ騒ぎのできる連帯感に安堵を求めるのでしょう。
孤立することや孤独感から逃れていては本当の自分を見つめられません、社会の本質は覗けません。
わたしたち一人一人が草の根運動として、活動を継続させることが、将来大きなプラスエネルギーとして影響力を増し、社会を改善させていくのでしょう。

いんげん豆という名を残した隠元という僧侶が残した言葉に「参禅は、一人と万人と敵するが如くに相似たり」というものがあります。
道を求めるということは、一人で万人の敵を相手にするくらいの心構えが必要だ、と伝えています。
量的優位性と質的優位性は両立しないという絶対的法則を考えると、質を追及する少数派は、質を追及せずに量だけを追及する多数派とは常に対立するのでしょう。