「触れ合いだよ。
街中を歩けば、人と体が触れたり、ぶつかったりする。
みんな触れ合いたいのさ。
衝突し合い、何かを実感したいんだ」
これは私が好きな映画
「クラッシュ」の中のセリフ。
今日はたまに亜砂子論を熱く語ります。
みんな触れ合いたい。
身体でも、言葉でも、交じ合うことで生きている実感をもつ。
私にとって「交わる」ことは大切なこと。
言葉を交わす。
挨拶を交わす。
意見を交わす。
気持ちを交わす。
私の生活の中にいつも1つの公式があります。
それは
「想像力+相手の気持ちをくむこと=態度≒良い人柄」
想像力を働かせて、相手の気持ちをくむことで
それが態度にあらわれ、やがては良い人柄を作る。
という私論。
長年サービス業につきながら
お客様をどうもてなすべきかを考え続けて
たどり着いた私だけの公式。
いつもこの公式を頭にとどめて生活しています。
人間関係で
「なんでそんな風にいうの?そんな態度とるの?」
と相手の行動があまりにも自分の期待に反していて
自分の思いとかけ離れたその距離の長さに
繊細な心は傷ついて
愛情の空回りに悲しくなった経験ありませんか?
私はたくさんあります。
でもそれは、もちろん
「勝手に期待した自分の空想でしかない。
私の勝手なワガママな欲望」
と片付ければ簡単に話は終わること。
でも、もしも
自分が傷つける方の立場だったら?
と考えると私は辛い。
傷つけられる側なら、
「想いがうまく伝わらなかった」と自分に言い聞かせて
我慢することはできる。
でも
できることなら、人を傷つける側にまわりたくないと私は願う。
人を傷つけたときの心の痛みは
傷つけられた時よりも深いことを知っているから。
人は人と必ず交わって生きていく
「交わり」を求めて生きるのが人間の本能だと思う。
生命を次につなぐために
身体の交わりも忘れてはならない。
人は「交わること」で生きていることを実感し
愛を感じ自分の個を確認することができる。
「交わり」が本能として遺伝子に組み込まれているはずなのに
「引きこもり」とか「ネット難民」とか
最近の日本では人の本能である
交わりを避ける若者が増えている。
私は今アメリカにいて
アメリカよりよっぽど少ない国土と人口の日本で
そういう人たちが増えていることに懸念している。
人は交わらなくては本来生きていけない。
だからこそ
私はなるだけ私と交わった相手に
悲しい気持ちを与えたくないし傷つけたくない。
誰かが私に何か言葉でも行動でも届けてくれたら
私は目一杯想像力を膨らませ
相手に感謝の気持ちで答えたい。
たとえば
誰かにギフトをもらいました。
「物をもらったら「ありがとう」といいなさい。」
といわれ育ったので
「ありがとう。」と返事をする・・・・
のではなく
そこに目一杯の想像力をプラスすることで
感謝の気持ちも増幅するものだから。
・どこかに足を運んでプレゼントさがしてくれたのかしら?
・このプレゼントのためにお金を貯めてくれたのかしら?
・何がいいか?と誰かにアドバイスをもらったかもしれない。
・ラッピングにまでこだわったのかもしれない。
などなど。
ギフトをもらったというそれだけの出来事に
想像を張り巡らせることで
色々な可能性が生まれ、感謝の気持ちが深くなる。
そして「ありがとう」という言葉に
きちんと想いをのせて伝えることができるようになる。
私たちは、
予想もしない角度で交錯しながら
愛を交わし、憎しみをぶつけ合い、
ときには哀しみの淵に立たされる。
でもその悲しみはたいてい
「相手の気持ちを汲むこと」が
できなかったことが原因でおこる。
「相手の気持ちを汲むこと」
=人の心の内を推し量ること。
「推し量る」の「推す」は「推測」の「推」
やっぱり想像してあげることが大切なんじゃないかと思う。
人として本能のまま生きていて
「交わり」を求める私たちは
誰もが善悪表裏一体で
傷つける側になることもあり、
傷つけられる側になることもある。
それを恐れながら生きている。
それでも人は誰かと想いを分かち合いたい
誰かと繋がっていなければ生きていけない。
今こうして、他民族国家アメリカにいるからこそ
自分の公式を今一度胸にとどめようと思いました。
私はこれからも「交わり」を求めて生きていく。
そのためには BE NICEであること。