おばあちゃんの記事を書くのは久しぶり。
去年、自分の気持ちを書き留めておきたくてずーっと書き続けた
『トイレの神様』は当分聴けない
読んでたらしんどくなる。と、ある意味不評でしたが。
しんどくなりたい人は是非読んでください(^▽^;)
去年の昨日、
8月31日におばあちゃんは生涯を閉じました。
一か月前に、少し早めの一周忌を済ませて、
初盆も済ませて、
また少し落ち着けたのかな。
30日が従弟の誕生日で、
おめでとうのメールをした。
そっかぁ、もう1年になるんやな。
そう思った。
私の生活も変わったから
未だにおばあちゃんがいないという感覚が身についていないのかもしれない。
ずっと家にいたらもっと違う感情でこの日を迎えたのかもしれない。
お通夜とかお葬式とか、
お別れの儀式には
いろいろな面倒なこととストレスがついて回って・・・
孫なんて、悲しい顔して座ってたらいいんちゃうの?って思うけど、
そんな単純には済ませられなかった。
今さらながら先に逝った母をうらみたくなった。
わたしゃ孫なんだよ。嫁じゃないんだよ。まったく・・・。
って何度思っただろうか。
残暑の厳しい、
暑い暑い夏のおわり。
実家と自宅を行ったり来たり。
食べる気力が無いんじゃなくて、
悲しくて辛くて食べられないんじゃなくて、
食べる時間がなかった。
日々、しんどいこととかあるけど、
あのときほど体を酷使したことないし
今後もなかったらいいなって願う。
あのときがあったから、
今につながっているものも確かにあるし、
あのときに感じたものが
今の動力になったりしてるんだから、
ひとがひとりいなくなることが
いろんな意味で
たくさんの影響を与えることは確かだと思う。
1年前、
きっと意味もわからずに
大人の都合で振り回されたであろう
姪っこジャスミン。
やっとつかまり立ちができるくらいだったのに、
おばあちゃんの法事のたびに
どんどん成長していって
今は走りまわって、いっぱいおしゃべりするよ。
おばあちゃんとジャスミンが一緒にいると
何故か二人ともご機嫌だった。
なんでかなぁって言うお姉ちゃんに
私は
年寄と赤ん坊は神様に近いからちゃうか~
なんて言って、
お父さんにオイオイって言われたけど、
言い方はまずかったとしても
きっとそのとおりなんじゃないかなって
今でもおもってる。
たくさんの道を歩いて、
おそらにかえっていくひとと、
たくさんの道を歩くために
おそらからやってきたばかりのちびっこは
どちらも汚れがなくて尊いんじゃないかな。
そんな尊いいのちを授かることも
尊いいのちを見送ることも
この世で生きている限り、
ずっと続いて行くもので、
自分の番がくるまでは、
見送っていかなきゃいけない。
願わくば、
自分の番が
父よりあとでありますように。
まだ見ぬ自分のこどもたち、
ジャスミンたちより先でありますように。
私自身、4歳になる年に亡くなった祖父のことは覚えていない。
1歳だったジャスミンが将来曾祖母のことを覚えていることはきっとない。
だけど、私もお姉ちゃんもお父さんも
ジャスミンとおばあちゃんが過ごしたほんの少しの時間を
忘れることはないだろう。
変わったことと言えば
ただ、独り言が増えた。
あー、裏庭の花、咲いとったで。
近所のじぃちゃん、薔薇の木、切ってくれてたわ。
確実に独り言と思われる私の言葉は
きっとおばあちゃんに向けられているのだろう。
いつまでもそこに居てくれたら
それはそれで困るのだろうけど、
身体は失っても。
生きてそこにいた証が
そこにはある。
祖母が生きた証が
父であり、叔母であり、
そしてお姉ちゃんであり私であると。
1年。
長くもなく、短くもなく、
たった1年おばあちゃんがいなかった。
それだけのことが、
これからずっと続いていく。
ほんの30年か40年か、
おばあちゃんがいない歳月を経たら、
きっとまたどこかで
逢えるのでしょう。
そのときはきっと
私も『おばあちゃん』なんだろうな。