私は地元でも部活動が盛んな高校に進学した。
可もなく、不可もない偏差値。
いわゆる「普通」と言われる学校。
私は入学式から仏頂面で爪の甘皮をめくってた。

部活は陸上部の先輩に頼まれ、その先輩がいた野球部にマネージャーとして体験入部した。

私はタッチの南ちゃんみたいなのを想像してたが、日がな1日裁縫(ボール縫い)をやらされ、1日でバックレた。
だって、出来ない「家事」だったから。
先輩には怒られたけど「私もあんなだと思わなかった」と喧嘩した(笑)。

でも、家にいたくないから何か部活に入りたくて、近所の先輩が去年までいた吹奏楽部に入った。
パートはアルトサックス時々バリトン。
うちには金銭的な余裕もなく、ピアノなんか習ったことなくて、まずは楽譜の読み方から習った。
でも、音が出せたり自由に吹くことが出来るようになって来たら楽しくなった。
「出来る人が少ない何か」を習得することが楽しくて、毎日真面目に練習にも通い、せっせと錆びたサックスを磨いていた。

その努力(?)が実ってパートリーダーにのし上がる。

びっくりした。
人に初めて「評価」されたことが照れくさかった。

リーダーって言ってもそんなに他の人には興味もないから、向いてはなかった。

他パートと比べても干渉の少ないパートだった。

ただ、メトロノームがない時の手打ちリズムと声掛けはリーダーの仕事なので音が大きい手拍子とどこまでも通るでかい声だけは身についた(笑)。
今も尚、ライブでの拍手で役立っている(笑)。

交友面は楽しかった。友達も沢山出来た。

初めて彼氏とかいうのも出来、それなりに充実した3年間ではあった。

ただ、気まぐれで友達とはしゃぐ日、喋らない日があり、周りを混乱させていたとは思う。
「あ、私一人の時間ないと無理なんだ」と伝えたら、何人か友達が減ったが「そっか、仕方ないね」で終わってた。

彼氏はそんな私の気持ちを尊重していたのか、彼自身もそれほど私を好きではなかったのかは不明だが、クリスマスや正月にスーパーのバイトに入り、鮮魚部で冷凍マグロの頭をノコギリで落とすという「女の子らしくない」仕事を心から楽しんだ。

そんな私に彼氏は「頑張ってね」と優しく言ってくれた。

後で友達に有り得ない、と言われたが何が有り得ないのかわからなかったし、私と彼氏のことまで干渉しないで、とか思ってた。

学習面では、成績はわりと良かった。
毎年受ける模試で「射程圏内」の大学の中にいくつか「医学部」があった。
「お金ないから無理だな」と、結果の用紙を毎年破り捨ててた。
母に聞かれても「だからってどこの大学に行けるわけでもないんでしょ?」と言い返してしまってた。

高校2年生の夏の面談で、再度知能検査の話になった。
「また?」とも思ったが、進学か就職か。
その分岐点に本格的に立つ前に検査をしてください、と。
大人が納得するなら受けてもいいよ、と返事した。

結果は「知的能力に対し、処理能力が劣るので進学で、バイトなどで訓練をしながら人生の岐路決定に猶予を与えてはどうか」との診断だった。


「進学しろって言われたんだけど」

父は無言だった。私は間取り図が好きで、父が退職後に建築系の仕事を営んでいたので、勝手にパース引いて架空の住宅や店舗を夢中で設計した。

私にとっては胸踊る楽しい時間だったのだ。

アナウンサーで叶わなかった活路を建築に見いだしてた。


「建築士になりたいから、建築の専門学校行きたい」

「女だてらに建築だぁ?ふざけるな!」

父は持っていたお酒の入ったおちょこごと投げつけてきた。今でも額にその時出来た傷がある。

私は初めて泣いて父に抗議した。

「じゃあ、どんなことだったら許してくれる?アナウンサーもダメ、建築もダメ、何ならいいの?」

父は流血していた私の顔を見てハッとしたのか、分が悪そうな顔をしてふて寝してしまった。


数日後父に「国家資格が取れるとこ限定、学費は安く、大学は不可」と箇条書きのように言われた。

閲覧資料の建築学校はどこも学費が高額だった。

万事休した私は、絶対に自分からは行かない職員室に出向き、担任に父の言葉を告げた。

担任は机の引き出しから1枚のプリントを出してきてこう言った。


「なあ、看護学校なんてどうだ?指定校推薦で奨学金制度もあり、実質生活費だけで行けるぞ」


看護学校か…厳しそうだな…。でも国家試験とやらに通ったら親は「よくやった」と言ってくれるかな?

何事にもとにかく負けたくない私は、「ちゃんと」できるところを証明したくて、看護学校への進学を決めた。