私は地元の中学に入学した。

一緒に学校に行くしーちゃん(仮名)は、とにかく何でものんびりしてて、忘れ物も多かった。

私は遅刻したくないから、しーちゃんを置いてでも先に行きたかったが、しーちゃんがそれを阻止するので断れなかった。

結局3年間で、通算50回くらい遅刻した。


父に「なんでそんなに遅刻をするんだ!ちゃんとしろ!」と問答無用でほっぺグーパン💢✊👊💥された。これも意味がわからなかった。

「私はちゃんとしてるよ?」「うるさい!」👊💥。

顔が腫れ上がり学校休まされた。今覚えば行けばよかった、と思う。

父は3年間で単身赴任で家に居なくて。

また一緒に住み始めて4年とかで、ガンガン殴るから「理由なく殴るとか!何こいつ?」って父のことずっと憎んでた。


私の頭の空想はどんどん広がり、ある日突然家の前に引越し業者さんが来て、本当の両親が迎えに来ると信じていた。もちろん来なかったけど。

中3までまあまあガチで信じてたかもしれない、ガキだから。


陸上やってて。

走るの好きでもないけど、走ってる間は頭の中のスイッチ入れ替えて、好きな歌手の歌を脳内再生して走ってることで生きづらさとか、両親や担任たちとの軋轢を忘れられた。ちなみにユニコーンが主。


高飛び転向して半年くらい経ったら中2の秋、背中の歪みを指摘された。中等度の成長時側弯症。

私はハーネスみたいなアルミの固定具をして母の車で登校していた。陸上は半年〜最悪1年は禁止。


そしたらまた時間が出来、脳内の遊園地兼映画館が開館した。

だから友達いなくても平気。毎日窓の外を眺めて、テキトーにノート書いて、落書き書いて。

そんなでも国、英、社は毎回満点、理系は80点代くらいで落ち着いてたから、教科担当は授業態度に関して不満はあったようだが、何も言わなかった。


ただ、その時の担任から「君は国語の読解力、表現力、音読がとてもうまい。国語や英語の教師かアナウンサーにならないか?」と言われた。

その担任はいい所を伸ばしてくれる、優しい担任だった。

私は声の仕事をしてみたかった。出生から東京で数年過ごし地方都市に移住したので、アクセントも他の友人よりは矯正の必要もなかった。


アナウンサー、やってみたいな。

帰宅後父母に「報道のアナウンサー、なりたい」と言ったら鼻で笑われ、ビールの蓋を投げつけられた。

「そんな金ねぇんだわ、高校出してやるからありがたく思うんだな」と。奨学金制度もダメだ、と。

今で言う「親ガチャ」失敗ですよね(笑)。

親って無力なんだな、って思った瞬間でした。

はー、国立大学出て報道の仕事に就きたかったなあ、って今でも思いますが、あの時は情報量が少なすぎてあれだけ足掻いただけでも十分、と思えるように。


でも、その懇談後やっぱり燃え尽きて、3年からは成績急降下(笑)。ハーネス固定で陸上も途中退部。

志望校への受験を担任に「今のお前には難しい、俺は命がけでも止めるぞ」とまで言われ、萎える(笑)。

ろくすっぽ勉強することなく、高校入試を迎えた。


高校入学後英語教師より「ヒアリング試験トップだったよ」と個人情報ガン無視な事聞いたけど「はあ、そりゃどうも」とだけ答えたら、何考えてるかわからんと怒られたのはまたあとの話。


この頃も毎年チェックされた知能検査。

母の希望もあって、夏休みの一日はそれで潰れる。

もう楽しいとも思わず、淡々と。

やっぱり高いままの数値。似たような点数なのにもうしなくて良くない?ってずっと思ってた。

「この数値って何?テレビだと『すごいね、その数値』とか言ってるけど、私超えてるよね?何の意味あんの?」ってどんどんひね曲がってった。


ちなみにその頃、135とかだった気がする。

でも志望校は受けれないし、この数字って何?

この頃から私はあまり笑わなくなってた。

何人かの男子に「お前無表情やめろよ、笑うと可愛いのに勿体ないじゃん」って言われても、浮き足立つどころか、何でよく知りもしないあなたのために笑わないといけないのさ、とか思ってた。


この頃から大人への反骨心や、周りへの不信感が芽生えた時期でもありました。


そんなロボットのような冷淡LaLaが高校入学します。