私は、昔からトイレが近い。
物心ついた頃からだから、
もう「そういう体質なんだろう」と思っている。
痛みがあるわけでもないし、急にそうなったわけでもない。
ただ、昔からトイレが近い。
だから普段は、そんなに気にしていない。
行きたくなったら行けばいいだけだから。
でも、先日バスツアーに参加したとき、ちょっと気になった。
バスツアーって、トイレ休憩の時間が決まっている。
「次のトイレまで、まだ時間があるな」
そう思うと、
「それまで大丈夫かな」
「途中で行きたくなったらどうしよう」
と、トイレのことが気になってくる。
そこで、ふと思った。
もしかして私が気になっているのは、尿意そのものではなく、
「自分ではコントロールできないこと」なのかもしれない。
私は、嫌なことがあれば自分でやめることができる。
無理だと思えば断ることもできる。
環境が合わなければ変えることもできる。
自分で決められることなら、ある程度どうにでもできる。
でも、尿意は違う。
「今は困るから、あと30分待って」
と、自分の意思で止めることはできない。
身体は身体のタイミングで、
「今、行きたい」
と言ってくる。
それを考えていたら、ふと彼とのことが思い浮かんだ。
私の「恥ずかしい身体」も、彼は受け入れてくれる
彼は、私がトイレが近いことを全然気にしない。
それだけでもありがたいことなのだけれど、それ以上に印象に残っていることがある。
私たちがSEXをしているとき。
身体が緩んで、不意に尿が漏れてしまうことがある。
私にとっては、
「えっ……」
と思う瞬間。
恥ずかしいし、
「嫌じゃないかな」
と思ってしまう。
自分ではコントロールできない身体の反応だから、なおさら。
でも彼は、それを嫌がるどころか、
そんな私の姿も素敵だと言って、喜んでくれる。
私が「見られたくない」と思うようなところを、彼は嫌なものとして見ない。
むしろ、
「そんなあなたが好き」
って、人には見せられない姿を受け止めてられることをよろこんでさえくれる。
それが、私にはすごく嬉しい。
そして、今回バスツアーでトイレのことを気にしていた自分と重ねてみたら、
「これも何かの象徴なのかな」
と思った。
「コントロールできない私」でも、愛される
私たちは、愛されるとき、
「素敵な自分」でいたい。
きれいな自分。
ちゃんとしている自分。
余裕のある自分。
相手を喜ばせられる自分。
そんな自分なら、愛されると思ってしまう。
でも彼との関係の中で、私は少しずつ違うことを知っている。
コントロールできない私も、愛される。
そして、
「こんな私でも愛してくれる」
というより、
「こんな私も含めて、愛おしいと思ってもらえる」
ということ。
これは、私にとって大きな気づきだった。
身体をコントロールすることより、身体を信頼する
もしかすると私は、身体に対しても、
「ちゃんとしていてね」
と思っていたのかもしれない。
尿意も。
SEXのときの反応も。
感情も。
自分の思い通りにできることは、自分でコントロールする。
でも、身体には身体のリズムがある。
自分の意思だけでは止められないこともある。
そして本当は、それでいい。
身体が反応すること。
身体が緩むこと。
身体が感じること。
そこには、頭で決めた「こうあるべき」なんて関係ない。
彼は、そんな私の身体を否定しない。
それを見ているうちに、
「そんなにコントロールしなくていいよ」
と教えてもらっているような気がしてきた。
そして、これは人との関係にもつながっていく
私は今まで、
みんなで行動しているときに、一人だけ何回もトイレに行くから、
「また行くの?」
「みんな待ってるのに」
「何回も行くの、ちょっと面倒くさいな」
と思うこともあった。
でも、また何回もトイレに行っていたら、
「まだなのね。仕方ないね」
でいいんじゃないかな。
好きで何度も行っているわけじゃない。
身体のことは、本人の意思だけではどうにもならないことがある。
それは、私自身が一番よく分かっている。
だから、
「早くしてよ」
とコントロールしようとするのではなく、
「身体のことだもんね。仕方ないね」
と待ってあげる。
「仕方ない」は、諦めではない
「仕方ない」という言葉って、時々、諦めのように聞こえる。
でも、私は今回、
「仕方ないね」って、実はすごく優しい言葉なのかもしれない
と思った。
自分ではどうにもできないものを、
「どうにかしなさい」
と責めない。
「なんでこうなの?」
と否定しない。
ただ、
「そうなんだね。じゃあ、そういうものとして付き合っていこう」
と受け入れる。
それは、自分にも、相手にもできる。
自由って、
何もかも自分の思い通りにすることではないのかもしれない。
自分ではコントロールできないことが起きても、
「まあ、そのときはそのとき」
と思えること。
身体が自分の思い通りにならなくても、
「この身体で大丈夫」
と思えること。
そして、
コントロールできない私でも、愛されると知っていること。
彼が私にくれたのは、もしかしたらそんな安心なのかもしれない。
そして今度は私も、
自分の身体に。
そして、私の周りにいる人たちに。
「まだなのね。仕方ないね」
と言える人でありたい。
コントロールできないものを、コントロールしようとしない。
それもまた、愛なのかもしれない。