永い言い訳永い言い訳
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【内容紹介】

長年連れ添った妻・夏子を突然のバス事故で失った、人気作家の津村啓。悲しさを“演じる”ことしかできなかった津村は、同じ事故で母親を失った一家と出会い、はじめて夏子と向き合い始めるが…。突然家族を失った者たちは、どのように人生を取り戻すのか。人間の関係の幸福と不確かさを描いた感動の物語。

 

 

映画も始まり、でも近くの映画館ではやっていないのでどこかで年休を取って

観に行きたいなぁ~とたくらんでいますが

原作も読み終わり、本当におもしろくて、それでいて泣けて悲しくて

自分にも主人公の幸夫と同じような部分を見つけて自己嫌悪になり

それでも自分が42年間ずっと閉じ込めていた暗の部分を

なにか肯定してもらえた気持ちにもなり

これは絶対に映画館で観たい!と思わされた内容でした。

 

自分には子供がいるし、少なくとも奥さんとの関係も

この主人公の幸夫とは違うと自分は信じていますが

それでもそれは奥さんや周りの人の理解の中で得られている姿のようにも思えます。

 

西川さんが描く繊細ですごく伝わる言葉の使い方。

文章が心のひだを触り、そしてえぐる時があり

そんな文を読んだ時にしばし本を閉じて、ぐっと考える時間がありました。

 

読む人によって違うし、投影する自分は幸夫ばかりじゃない。

登場人物の誰かに自分を合わせて、他の登場人物への愛情だったり怒りだったり

そんなことを感じずにはいられない本だと思います。

 

自分が一番グサリときたのはこんな言葉でした。

 

異性のほとんどはこうしてひとたびどんな深く交わろうとも、他人に始まり、他人に終わる。

一度はあんなに夢中になって、肌の一部のように感じた人が音も立てずにこの世のどこかで朽ちていく。

たかが二千平方メートルの東京の中のどこかにいても、ちっとも感知できない。

朽ちていくことを知っても、涙さえでない。出す資格もない。

過去は手が届かない。

深い黒い淵に落ちたまま、二度とこの手にはすくいとれない。

 

この言葉を読んで思った。

人生それなりに生きていれば、

もうこの人なしには生きていけないと思うような出会い

別れによって体の一部をもぎ取られたような喪失を感じたことってたぶんある。

でも、人間は忘れるし、それを多少の痛みとしては覚えているんだけど

日常の中で思い出すことなんてほとんどなくなる。

その後相当近しい相手でない限り、相手の消息も知らず

今この時に生きているのか、死んでいるのか

幸せなのか、不幸せなのか

誰かといるのか、独りなのか

ほとんど全く知らないし、気にかけない。

かけたとしても明日の仕事や日常の約束を超えることはない。

 西川さんは「朽ちていく」という表現を使っていますが

この表現がやっぱり一番わかりやすい。

人間なんて一生に会う人なんて本当にわずかだし

その中で心を一時でも通わせられる人はもっとわずか。

でもその心を通わせた人でもほとんどは「朽ちていく」姿を見ずに終わる。

それが別れってことなんだと思う。

 

そんなことを、読み終えた後にしばらく考えた。

あの人は今はどうなんだろうと。

もうとにかく日常が慌ただしくてそんなこと考える余裕もなかったけど

久しぶりに考える時間をもらえたように思う。

西川さんが書いたように

朽ちていくことを知っても、涙さえでない。出す資格もない。 」けど。