前回の読書日記〜三島由紀夫著「天人五衰」
に続いてのこちら。
「太陽の季節」石原慎太郎著/新潮文庫
これまでの人生で、一向に手に取ろうとしてこなかった類の本。題名は知っていた。作者も知っていた。
なぜ手に取らなかったかといえば、
私とは違いすぎる世界でしょ
と思って興味を持たなかったからだと思います。
しかし最近になって、パッと見、共感しなくても、名作/話題作/気になったものは可能な限り読んでみようと思うようになりました。
もちろん途中でザセツして、新品同様のまま古本屋さんに...ということもままあるのですが。
それでもなおチャレンジして得るもののほうが大きい(予想外の良さがあり、自分の心の幅が広がることもある)と感じるようになったからです。
この本も、読んでみると妙な面白さがあり、一気に読めました。
異質さとの出会いが私なりに面白く感じられたのかもしれないし、あるいは異質の中になるほどと思わせるものがあったからかもしれません。
主人公は言います。
「人間にとって愛は所詮持続して燃焼する感動であり得ない」
なんとも乾いた表現、だがしかし。
生物のなりたち、この世界の成り立ちを、少し遠くから眺めてみれば、確かに燃焼という現象は永遠に持続するものではない。あくまで一過性である。
太陽くらいの恒星であれば、その放熱は、人間の一生と比べれば相当に「持続している」といえるが、それでも永遠とはいえない。
燃焼という現象は、何事もそうなのだ。
ここで主人公が言うところの「愛」は、男女おのおのの発熱であり、ふたつの火花の交錯であり、その瞬間の燃焼。その一瞬の感動。一瞬だからこその感動。
ただ、こうして書いてみると、この本を読んで腑に落ちたことを私が咀嚼して表現しなおすと、小説の突き放したニュアンス(乾いた悲しみのようなニュアンス)はどうも出ないな、とも思います。多分、生き方の違いによる、感じ方、捉え方の違いではないかな〜と。
私たちが「愛」と言う時、それが指すものはいろいろ。
この小説のように男女の情愛を指すこともあれば、
宇宙大の慈しみを指すこともある。
または、そのふたつの間のどこかを指すこともあるのではないか。
愛とは、一瞬と永遠、その相反する要素を一つに包んだ神妙な言葉であり、
だからこそ、捉えられたようでいてその実、捉えられない感覚が常にあるのでしょう。
ということで、めずらしく(?)愛について考えを巡らす機会になったとともに、
なんて筋肉質な文章だろう‼️ということも、この作品に対する私の感嘆でした。
隆々としたエネルギーをこちらに感じさせるが、
その表現にだぶついたとことろがひとつもない。
ある世界を表現するのに寸分違わず表現された日本語というものは、共感非共感ぬきにして、かくも人を惹きつけるものなのかと刺激を受けました。
無駄のない日本語の美しさよ!
(実態の人生においては「あそび」も大事なのですけどね。芸術の場合は往々にして、無駄を引き抜いて純度を高める所作が一定求められますよね。)
さて、この石原慎太郎さんが国家議員として衆議院予算委員会で行った答弁がYouTubeにアップされていまして、これが面白い!
各々主張の是非はさておいて、自らの体験が下敷きにあることが、彼の抜きん出た日本語力を支えていると思うんですね。
君たちが受験で覚える日本国憲法やら歴代総理大臣の背景にはこういう生身の人間同士の渦巻きがあったんだよということ、
「自分で自分のことを決められなくなった国は速やかに滅びる」ということ、
これは知っておいてほしいなあと思って、小中学生の子供たちにも見せたのですが、内容以前に、次々出てくる言葉の凄みに惹きつけられて「すごいね」と最後までしっかり見ていました。
Ellie
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