過去とは、
記憶の集積ですが
この記憶とやらが不確かなものですね


でも、

「私が体験したんだから間違いない!」

そう言いたい自分がいます。




また、一般的に
自分の記憶を疑うなんてことは
しないと思います。




私もこれまでの人生



自分の体感してきたこと
自分の記憶を
見直したり疑ったり
したことはありませんでした。



冷静に考えてみると
全てを覚えている訳では無いので
記憶は断片的なものになっています。



その断片的な記憶は正しいとしても



それはよくある
「切り取り記事」
過ぎません~ガーン




そう、週刊誌とかでよくあるやつ
フェイクだったり
ねじ曲がった解釈がついていたり




そのように
記憶と記憶の間を
独自取材による?
勝手な憶測で埋め




一連の記憶として
疑うことなく
脳に格納しているのです




「えーそんなこと、ない!!」ダッシュ


と、私も聞く耳を持てませんでした




ちょっと白状しますと気づき


私の記憶の中では
家族の中で
一番愛情あふれるのは私だ




という認識が
ずっとありましたニヤニヤ



ちょっと書いていて恥ずかしいです。

問題が起きるまで疑わなかったのです。



どうしてそんな勘違いを
ずっとしていたのかというと




うんと幼い頃は
周りの愛がまだ認識できません。
あるのは「快」・「不快」


それ位未分化です
(脳がまだ発達していない)



 

自分の内側に無いものは
周りに映し出すことは出来ない

ので



「周りの人(家族)は愛情が無かった」
と感じます。



本当は「私が不快だった」
ということになります。
 

 
だって、寒かった(冬生れです)
だって、一人にされた
だって、おっぱい貰えなかった
だって     :
だって     :



それだけ、文句ばかりで
あたりまえにあるものに
ありがたいと思えない子供だった




「私は愛されなかった」
というのは
私には(投影するだけの)愛が無かった



なのです。
 


 


こんな勘違いから
人生が始まっていき
その後も修正されないままに
助長されていき(私の場合はですが)
それは問題が量産されるわけですね(笑)
 



大きな愛の勘違いをしていたことに
問題が起きてから気がつきました




真実の自分を確かめる勇気のある

猛者、いつでもウェルカムですニコニコ