心に明かりが灯る言葉たち

心に明かりが灯る言葉たち

俯いた心、しぼんだ心、前向きになりたい心・・・
 そんな心に明かりを灯す、
 励ましの言葉や勇気がでる言葉を書いてます。

 たまに趣味で歌詞も投稿します。

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弱い奴は 死に方も選べねぇ」
 トラファルガー・ロー


<物語背景>
地図にない島、パンクハザード。
そこは、かつて世界政府の天才科学者、ベガパンクの研究所があったが、
化学兵器の実験で事故があり、政府は島を立入禁止にした。
やがて毒ガスが消えたその島で、青雉と赤犬が、元帥の座をかけて死闘を繰り広げ、
灼熱と極寒が同居する島となり、再び誰も住めなくなった・・・はずだった。


魚人島を出発し、いよいよ新世界に入ったルフィたちは、
パンクハザードからの救難信号を受信し、島に上陸。
そして、それを傍受していた海軍中将、白猟のスモーカーと
海軍大佐たしぎが率いる海軍G5も、今は無人となっているはずのその島に上陸。

誰もいないはずのその島には、王下七武海となった、2年前の最悪の世代のルーキー、
元懸賞金4億4千万ベリー、トラファルガー・ローがいた。

ロ「おれの別荘に・・・何の用だ 白猟屋・・・」

ス「ここは政府関係者も全て立入禁止の島だ・・・ ロー」

ロ「じゃあ・・・!! お前らもだな」

スモーカーは、受信した救難信号をローに聞かせ、ルフィたちとの関係を問う。

ロ「用件は何だ
  緊急信号の捏造は お前ら海軍の十八番だろう」


ス「残念ながら この通信は海軍(うち)で作った罠じゃない」

ロ「どうだかな・・・
  おれも知らねぇ話は終わりだ・・・」


ス「つまらん問答はさせるな
  研究所の中をみせろ」


ロ「今はおれの別荘だ ・・・断る」


スモーカーとローと押し問答が続く中、
建物の中から大声が聞こえてきた。
パンクハザードに捉えられ、人体実験をされていた子どもたちを引き連れた、
麦わらの一味、サンジ、ナミ、チョッパー、フランキーの4人だった。

事を荒立てずに終わらせようとしていたローは、
事態が変わったことで態度を一変。

ロ「お前ら もう島から出すわけにはいかねェ・・・
  人がいねェといった事は悪かったよ・・・・・・!!!」


ローは、オペオペの実の能力で、海軍を圧倒。

七武海は海軍に危害を加えてはならない。
憤る海軍大佐、たしぎが斬りかかる。

た「トラファルガー あなたがその気なら!!!」

ス「やめろ たしぎ!!! お前の覇気じゃ受けきれねェ!!!」

ズバンッ!!

スモーカーの制止も虚しく、たしぎはローに切られてしまう。

オペオペの実の能力で作り出す「ROOM」の中は、ローの領域。
切られても死にはしないが、胴切りにされた体では、もう戦えない。

た「なんて屈辱!! 切られて息をしているなんて・・・!!!
  切るならば殺せ!!! トラファルガー!!!」


悔しさと屈辱に叫ぶたしぎに、ローは残酷な一言を放つ。

ロ「心ばかりはいっぱしの剣豪か?
  ・・・よく覚えとけ 女海兵・・・」


ロ「弱ぇ奴は 死に方も選べねぇ」


かつて、アラバスタで味わった屈辱。

そして、相手はまた七武海。

たしぎにとっては、トラウマの再来だったかもしれない。

しかし、力がなければ、それを覆すこともできない。

力なき正義は無能。

たしぎは再び、それを痛感することとなった。


<解説>
「弱ぇヤツは、死に方も選べねぇ」

トラファルガー・ローのこの言葉は、

「弱ければ選択肢も少ない」

と言い換えることができる。

国家同士の関係においては、これはより顕著だが、
個人に当てはめても、同様のことが言える。

お金を100万円持っている人と、
お金を1万円持っている人。

選択肢が多いのは、100万円持っている人である。
使い方によって、結果は違ってくるが、
「持っている」という時点においては、
100万円持っている人のほうが選択肢は多い。

つまり、強いもの・・・仕事ができる、お金があるなど・・・のほうが、選択肢は多い、ということ。
仕事ができず、お金もなければ、選択肢は狭まる。
不公平かもしれないが、そこに文句を言っても始まらない。
それに、弱者といっても、いろいろと種類がある。

自分の生活に不満があり、それを改善したいなら、
まずは自分が行動するのが当然である。
それをしないのに、他の何かになんとかしてもらおうという考え方がナメている。
五体満足で健康なのに、なんら行動をしない人間が、
多かれ少なかれ自助努力して、力を得た人間に嫉妬し、罵声を浴びせるのは滑稽でしかない。

本当の社会的弱者であれば、それは手を差し伸べるべきだと思う。
しかし、そうでない、自分でどうとでもできるのに何もしない人間には、
保護をするのではなく、自分で何とかするということを教えなければいけない。

ブラック企業で働くのが嫌なら、別の会社に転職できる力を身につければいい。
仮に全員がそういう心構えで行動し、力を身につけたら、
ブラック企業にはいい人材はいなくなる。
そうなれば、ブラック企業は人材不足になり、勝手に潰れる。
それは自業自得であるから、同情の余地はない。

残酷なようだが、弱ければ選択肢は少ない。
それを受け入れて耐えるか、力をつけて選択肢を増やすか。

選ぶのは、自分自身。

ストレスを溜めるのはよくない。
誰でも知っているし、だからみんな、
いろいろとストレス発散をする。

飲みに行く、友達と騒ぐ、カラオケにいく、
自然に触れる・・・

それはそれで必要なことなのだが、
同時に、ストレスの原因となっている
根本的な理由を解消する必要があると思う。

上司に不満があることがストレスなら、
転職をするとか、その上司より上にいくとか、
あまりにもその上司が酷いなら、
酷い証拠を集めて、人の上に立つ資格なしとして、追放するか。

「そんなこといっても無理・・・」

「家族もいるし、リスクは犯せない・・・」

などと言ったら、そこで思考がストップしてしまう。

それで納得できるなら、なんの問題もない。
しかし、納得出来ないから、ストレスになっているはず。
その状況を変えるには、変えるための行動をする必要がある。


我慢したところで、ストレスが溜まり、
それで体を壊し、寝込んでしまったら、
それこそ家族に迷惑がかかる。

我慢すればいい、というものじゃない。
それが大人だと思うなら、それも考えものである。
大人なら、自分の人生に責任を持ち、
状況を変えるために行動する。
状況に流されるだけでは、子供と変わらない。


ストレスの発散はしつつ、
その原因となっている状況を変えるのである。
それは、「誰か」にお願いするものではなく、
「自分」でやること。

自分以外に、自分の状況を変えることはできない。

誰かにキッカケをもらっても、そのキッカケを活かし、
状況を変えられるかどうかは、自分次第。
動かざる得ない状況になっても、
変化を受け入れ、自ら行動できなければ、何も変わらない。

自分のストレスはなにか。
ストレスの原因になっているものはなんなのか。
それを解消するためには、どうすればいいのか。
そのために今できることはなにか。

自分だけで答えが出ず、誰かに相談しても要領を得ない、
相談する相手もいない、というなら、本を読めばいい。
同じような状況を乗り越えてきた人の話が、ヒントになるかもしれない。
全然関係ないと思った本から、答えが導き出されるかもしれない。
本屋にいってみれば、今の自分に必要な本が、自然と分かるものである。

何もしなければ、何も変わらない。
一歩でも進めば、見える景色は変わる。

自分で考えもせず、行動もしない人間の人生がよくならないのは、当たり前。
当然の成り行きである。
そこに不満をいうほうがおかしい。

納得のいかない状況を変えるにはどうすればいいか。
考えて、答えを見つけて、行動する。
その当たり前のことをできるかどうかが、
死に際の後悔をするかしないかの、分かれ目にすらなるのである。
今回はイジメの話。

以前、イジメられたら、ひたすら逃げればいい、という記事をみた。
イジメられるぐらいなら、登校拒否でもいいじゃないか、
という論調の記事もあった。

分からなくもない。
本当に身の危険を感じるなら、逃げることも正解だと思う。

でもね・・・

逃げ続けて、どこへいく?

例えば、Aという学校でイジメられてた子が、
Bという学校に転校したとする。
それで、イジメはなくなるだろうか?

おそらく、一時的にはなくなる。
しかしまた、イジメられる可能性は高い。

イジメは、イジメるほうが悪い。
それは分かる。
しかし、相手だけに責任を押し付けると、
本質を見失う。

イジメられる人間は、何かしら、
イジメられる要素を持っている。
それを改善しない限り、
場所が変わってもイジメは続く。

それが現実。

環境を変えるのは、一つの解決策ではあるけど、
結局は、根本的な解決にはならない。

昔いた会社で、イジメられっ子体質を改善しないまま、
大人になってしまった女性がいた。

その女性は、イジメられた体験を、事あるごとに話し、
周りから同情を買おうとしていた。
無意識かもしれないが、誰に対してもそんな態度。

はっきり言って、そういうのは嫌われる。

案の定、会社の全員から嫌われた。
唯一、人徳がなく、これまた全員から嫌われていた社長を除いて。
だからといって、誰もその女性をイジメてなどいなかった。
話しも普通にしていた。

でも当然、仲がいいもの同士との接し方とは違う。

その女性は、孤立していると思い込んだ。
仲のいい人同士が、仲良くするのが気に入らない。
自分に対する態度と違う、というわけだ。
そして、そうなっている原因が自分にあるとは、微塵も思わない。

その結果、その女性がとった行動は、

『社長の同情を買い、自分を嫌う人間を排除すること』

だった。


そして、その女性が原因で、多くの人が辞めていった。
言いがかりをつけられ、パワハラで訴えれば勝てるほどの、
トラウマになるほどの仕打ちを受けた人もいた。

自分でどうにもならない相手を、
自分より力がある人間を利用して倒すのは、うまさとも言える。

しかし、一人の人間として考えると、その女性のしたことは最低である。

自分に原因があるかもしれないから、自己を見つめなおそう、
と考える人は、こうはならない。

その女性からしてみれば、子供のころイジメられたのは、
悪いのはすべてイジメっこで、自分は何も悪くない、
変えなければいけないことなどない、ということなのである。

しかし、自分で自分を変えようとせず、他人のせいにする人間が、
幸せになれる道理はない。
いずれツケを払うことになる。自分の人生で。

逃げるのがダメとは思わないが、
どこかで自分を変えることをしなければ、
大人になっても同じ苦労をするのである。


逃げ続けてどこへ行く?

幸運は勇者の味方をする。
逃げ続けるのは、明るい未来を自ら放棄しているのと同じなのである。
居酒屋などにいくと、サラリーマンが愚痴を言い合っていることがある。
居酒屋でよく見る風景、といってもいいかもしれない。

なぜ、愚痴をいうのだろうか。

一言で言えば、現状に満足していないから、である。

例えば、

A「うちの上司、なんでああいう言い方しかできないんだろうね」

B「そうだよなぁ。あんな言い方されたら、やる気なくすよ」

A「ありゃダメだね。器が小さすぎる。」

B「まったくだ。こないだもさぁ・・・」

というふうに、納得のいかないことを言い合って、酒の肴にする。

そして、愚痴を肴に酒を飲むとき、

『じゃあ自分ならどうするのか』

とか

『現状を変えるために何をするのか』

といった話は、出てこない。

ひたすら、”何か”を悪く言うだけである。

冷静に考えて、それで何かが変わるのだろうか。
当然、何も変わらない。

納得いかない現状を変えるには、
自分で考え、行動する必要がある。

矛盾するようだが、納得いかないと言いながら、
何もしないのは、その状態に甘んじているということになる。

「しょうがないんだよ!!」

と思うかもしれないが、
本当にしょうがないと思うなら、それは納得しているということになる。
であれば、愚痴など言わない。


同じ愚痴でも、笑い話のように話すなら、まだいい。
それは、ストレス発散にもなるかもしれない。
しかし、酒を飲み、目がすわった状態で、
刺々しい口調で言う愚痴は、毒を浴びているのと同じ。

愚痴をいうことで、一見スッキリしてるように見えるが、
刺々しくドス黒い言葉を浴び続けている心には、
当然のように黒いものが溜まる。

怒っている人が、自分の怒りの言葉で、
さらにヒートアップしていくのと同じである。

質が悪い。
愚痴を言う暇があったら、たとえ僅かでも、
納得いかないことを変えるためにどうするかを考えたほうがいい。
これだっ!ということが浮かばなくても、
愚痴をいうよりは遥かに健全だし、心にも身体にもいい。

愚痴をいう生活が嫌なら、
愚痴の理由を取り除いていけばいいのである。
誰かではなく、自分で。


愚痴を言い合うなんて、カッコ悪いことは止めて、
楽しく生きてみませんか?
日本人は、謙虚さを好む傾向がある。

「君すごいね!」
と言われても

「いや、それほどでも・・・」

とか

「まだまだですよ」

と言ったほうが、好感を持たれる。

確かに、

「当然だろ?」

とか

「おまえとは違うからな」

みたいな態度は、人に不快感を与えるもの。
そういう意味では、謙虚さは素晴らしい。
謙虚であることは美徳であり、
一見すると何も悪いことなどないように見える。

しかし、そこに罠がある。

謙虚さは過ぎると、卑屈になる。
人がせっかく褒めてくれているのに、それを否定し、
さらに行き過ぎれば、自己否定にすらつながる。
自分はすごくない、と言い聞かせているのと同じ効果になってしまう。

「おれなんか・・・」
「私なんか・・・」

という、あれである。

自分で自分をすごいなんて思ったら、
傲慢になってダメになる、と思うかもしれないが、
それはセルフイメージが低く、視野が狭い場合である。

自分で自分を認めることは、何も悪くないどころか、むしろ良いこと。
セルフイメージが高く、視野が広ければ、
自分で自分を認めつつも、上には上がいるのが見える。
そこが見えていたら、傲慢になどなれないもの。
でも同時に、自分だってそこまでいける、と思える。
自分はすごいから、と。

人からすごいと言われたら、素直に

「ありがとうございます」

と、受け取るのが一番。

相手の好意を受け取るだけ。
そうすれば、相手も気持ちいいし、自分も気持ちいい。

相手がお世辞で言っていたとしても、
素直に受け取ったほうがいい。
それで浮かれて調子に乗るなら、その程度なのである。
そして、その程度だったと気づけたら、それを改善すればいい話。

謙虚さは、自信過剰を制御するために必要なもので、
自信がないのなら、謙虚はひとまず置いといて、
自信をもつにはどうすればいいか、ということに専念したほうがいい。

特に、謙虚すぎる人は、
ちょっと過剰かな、ぐらいの自信をもって、ちょうど良くなる。

謙虚すぎるぐらいなら、自信過剰に。
なぜなら、そのほうが行動するから。
失敗しても、痛い目を見ても、何もしないよりはいい。
その失敗を経験にすれば、成長できるのだから。

何もしなければ、何も変わらない。
後退はしても、前に進むことはない。

もし、なかなか前に進めないというなら、
一度、謙虚さを捨ててしまってはどうでしょう。
結果、出る杭が打たれるように、ガツンっとやられても、
そこで気づけることがある。
学べることがある。
行動したからこそ、得られるものがある。

それに、打たれておとなしく引っ込むぐらいの杭なら、先もしれている。

謙虚さより、行動。
一度にたくさんではなく、
少なくても毎日。

その継続が、大きな力になるのだから。