この小説、とっても不思議な体験でした。
読んでいる時の私はほぼ全編通して泣いていたからです。
ただ、冷静になってみると、小説の内容のせいで泣いているというわけではなかったんです。
最初に読み始めたのは、ハスキーを空港まで送った帰り道の電車の中だったのですが。全然内容が頭に入って来ないぐらい私はハスキーとの時間が終わってしまったことに胸を痛めていました。
痛めていたというのは違う気がするのだけれど。なぜか涙がポロポロこぼれてくる不思議な現象。
それからずっと、この本を手に取ろうという気はなかなか起きませんでした。
それが昨日、寝る直前に急にまた読んでみたくなって、読んだはずなのに内容が思い出せない最初の数十ページは気にせずに、続きから読み始めました。
今日、帰宅してからまた読み続けて、涙と鼻水のせいで脱水症状が出てしまうのではないかというぐらい泣きながら読みました。
ティッシュボックスを開けてしまったのは、「アルジャーノンに花束を」と「イングリッシュペイシャント」以来。
でも今回、途中から何か様子がおかしいぞと感じたのは、必ずしも本の内容に心を動かされて泣いているわけではなさそうだと気づいてしまったからです。
まず泣きたいという気持ちがそもそもあって、本を言い訳に泣いているとでも言うのか。
単にホームシックなのかもしれないけれど。
ホスピスに身を置く主人公が、いちいち父親とのいろんなエピソードを思い出すたびに、私自身も幼少期に父と過ごした時間を思い出して泣いてしまうといった具合です。それも具体的なエピソードを思い出すわけではなく、なんとなく守られていた頃の気持ちが蘇ってきて勝手に涙が溢れてきてしまうんです。
小説自体もとっても素敵なお話なのだけれど、どこか上の空というか。漠然とした感情だけが押し寄せてきて、なんだか不思議な読書体験でした。
私は主人公の女性ほどの優しさは持ち合わせていませんが、感受性がところどころ似ていて、私がこんな場面でこう感じるだろうというようなことを主人公が言語化していたから、私も自分の気持ちに素直になれたというのもあったのかもしれません。
でも一つ気づきがあるとすれば、人間は生きている限り、最後の最後の日まで人との関わりの中で生きることができるんだ、ということ。新たな人間関係を作ることもあれば、過去の人間関係を修復することもできるし、新たな人間との間に生じた何かに過去の人間を思い出したりもする。そこに驚くような発見があったり、感謝のきっかけがあったり、見逃していた幸せがあったりする。
場合によってはその思いを誰かと共有することで、自分の死後もその誰かの中で自分の一部が生き続けるみたいな感じ。
本来この記事のタイトル曲は、無伴奏チェロ組曲になっていたはずで。この小説の中で繰り返し出てくるのは、この楽曲だからです。主人公がイヤホンを耳に入れる体力さえ失ってしまった時に、「それでも音楽は自分の中にある、私が今まで経験してきた悲しみも喜びも、人生のすべては私の中にある」と気づく場面も感動的ではあるのですが。
でも、この小説を読み終えて私が思い出したのは、魔女の宅急便のエンディングで流れてくる、こちらの楽曲でした。
この楽曲に寄せられたコメントを読むのが私は好きで。せっかくなので一つ引用させていただきます。
「小さい頃は神様がいて」って物凄い歌詞だと思う。
それは親かもしれないし、名もない沢山の不思議かもしれない。
ルージュを塗って、1人で出掛ける私はきっともうそれをそのまま感じとることは出来ないけど。
カーテンの木漏れ日が気持ちいい朝くらいは、少しだけ神様を思い出せるようになりたいね。
最後になりましたが、前回の投稿、優しいいいねやコメント、ありがとうございました。最近、BTSをフォローできる心理状態でもなくて、完全に個人の日記以外の何物でもないブログになっていますが、いつも付き合ってくださる皆さんの温かい視線に励まされています。
今日という日のどこかで皆様にもやさしさに包まれる瞬間が訪れることを願っています。