淀藩主で幕府老中の稲葉正邦は、元治元年六月二四日、真木和泉、久坂玄瑞、中村圓太、寺島忠三郎、入江九一の五名(内四名が変名)が提出した歎願書を一読すると、京都の宿泊所に滞在中の一橋慶喜に報告した。慶喜は直ちに中川宮や公家の伝奏、議奏にこの件を報じ、同日、朝議が開かれた。

 中川宮や京都守護職松平容保、桑名藩主で京都所司代松平定敬は、即刻、討伐すべきとの意見であったが、慶喜は、諸外国の脅威が迫っている現在、内乱を起こすのは下策である、まず幕府が信義を以って彼らを再三諭し、その事実を公にしたうえで、なお抵抗するようであれば処罰する策を講じるべき、との意見であった。慶喜は、応仁・文明の乱の再来のような事態だけは回避しなければならないといった趣旨の発言をしている。その後、大政奉還に処した慶喜の考え方がよく表れた発言である。容保や定敬はこの意見に反対したが、関白二条齊敬や老中稲葉正邦が同意して、慶喜の意見でこの日の朝議は決した。

 翌二五日、稲葉正邦の使者二人が、久坂、真木らが駐屯する山崎を訪れて朝議を伝え、大阪への退去を命じたが、長州側は礼を尽くしつつも、最早「一同、退去に応じるような状態ではない」として拒否した。一方、公家や在京諸藩に書状を差し上げて味方に引き入れようとする久坂や真木らの作戦は、相応の効果を上げ、因州、備前、津和野、加賀藩は、長州藩毛利敬親、定廣父子を寛典に処し、攘夷の実効を上げるべきとの意見書を幕府に提出、米沢藩も京都留守居役瀬尾保助の名で同様の趣旨の意見書を幕府に上呈した。同日、公家も大納言一条実良ほか、三十八卿の連署で意見書を提出した。一条実良は、「朝命を(前年八月十八日の政変のように)『等閑に転換』し『総体攘夷之御沙汰』も無く『違背之輩へ万事御委任』したのはどういうお考えであろうか」と暗に中川宮らを批判している。長州側の京への駐留作戦は功を奏したかに見えた。

 六月二七日、斥候より長州兵来襲の気配ありとの報を受けた松平容保は急遽、病をおして駕籠に乗り参内し、内裏の九門を閉ざして兵で固めた。当時は諸侯(大名)でも宜秋門の前では輿を降り、御車寄せの玄関まで歩いて昇殿する慣例であったが、孝明天皇は病気療養中の容保を気遣われ、内裏の西側宜秋門の内側、武家玄関まで輿乗入れを許されたうえ、内裏の南側に近接する凝華洞(御花畠)を兵営として貸し与えた。以上の史実は、守護職松平容保が主上の篤い信任を得ていた証左であろう。
   その後、開戦直前の長州側の朝廷への上書には容保を「国賊」「肥後守(容保)儀其性剛腸にて庸劣、名分を弁えずまた其の家隷ども奥州荒僻の寒士に候得ば、唯其威を張り、城市を虐候事而已にて天朝の所貴且叡慮かくあらせられ候事も相弁え申さず、縉紳を凌ぎ義士を忌み昔時山法師の悪行よりも甚だしく」と激しい怒りを込めて扱き下ろしているが、長州側の真木や来嶋、三家老には松平容保が主上より格別の寵恩を賜っていた事情を恐らく把握していなかったか、或いはその十分な認識が欠けていたものと思われる。

同二七日、再び朝議が開かれた。席上、正親町三条実愛は、五卿の宥免は筋が通らぬが、毛利宰相父子は赦免したらどうかと進言した。主上は、敬親・定廣父子については全く御不快に思われていなかったからである。ところが、夕方になって参内してきた慶喜は、この意見に反対し、「京に兵を居座らせる長州は臣下の分を越え不遜、彼らを引き退かせなければ、朝威の面目が立たぬ」と主張し、遂には「長州の嘆願を受け容れるなら、守護職も所司代も禁裡守衛総督である私も職を辞する」と怒りを顕わにした。この慶喜の言葉で、公卿らは沈黙し、この日の朝議は決せず、閉会となった。後で内大臣近衛忠房から意見を求められた西郷吉之助(隆盛)は、慶喜の意見に同意している。

六月二九日、孝明天皇は慶喜に宸翰を授け、おおよそ次のような考えを明らかにした。すなわち、第一に前年八月の大和行幸の儀は已むを得ず承諾したが、本意ではない、第二に松平容保を京都守護職に任じたのは、その忠誠と周旋に感悦したためであって、私情で贔屓しているのではない、第三に、長州人の入京は「決して宜しからざる事」と考えている、以上の三点である。

七月一日、伏見に駐留中の福原越後は、勧修寺家へ陳状書を提出しているが、すでに時宜遅きに失した感があった。七月二日には、孝明天皇より、今回の件については禁裏守衛総督一橋慶喜に諸事委任するという勅命が下った。この日、土佐藩の中岡慎太郎、石川誠之助が山崎の陣営にある真木、久坂、入江らを訪れ、朝議の模様を報告した。すなわち、松平容保が征長の勅命を請うたが、慶喜は合戦を回避する方針で容保らを抑止しようとしているという現況の報告である。この報告を受けて、真木や久坂らは、世子定廣と五卿の進発を促すべく山口へ使者を送った。この時点で、真木や久坂らは会津藩との全面対決の決意を固めたのである。

三日、慶喜は福原越後を伏見奉行所に呼び寄せるため、大目付永井尚志と目付戸川鉡三郎を伏見の福原の陣に派遣した。越後は病気と称して奉行所への出頭を一日伸ばし、その間に山崎の真木、久坂や天龍寺の来嶋らと対応を協議した。四日、福原越後は、伏見奉行所へ出頭した。永井、戸川両目付の下命は、天龍寺、山崎、伏見の軍を退去させ、福原越後のみが少数の手勢を率いて嘆願の趣旨を上呈すべしという趣旨であった。越後は、山崎や天龍寺と相談する必要ありとして、返答を延引した。

慶喜は、さらに在京諸藩の留守居役を二条城に呼び寄せ、七月八日までに兵を撤退させるよう福原越後への説得を命じた。因幡、筑前、安芸、備前、津和野等の各藩の使者が伏見へ赴いて、総督の命を伝えたが、福原は「今や如何ともし難い」として命令に応じなかった。

八日になると、慶喜はさらに長州側と交流の深い因幡、安芸、対馬の留守居役を伏見の福原越後の陣へ派遣し、十一日を期限とする撤退命令を伝えさせた。だが、この時点では、長州側の鎮撫総督国司信濃率いる約五百の兵の到着が明日に迫っており、その情報を耳にしている福原が、撤退命令に応じるはずはなかった。

福原は、山崎へ赴き、真木、来嶋、久坂と協議し、山崎の兵をいったん大阪まで退かせ、世子定廣と五卿が大阪へ到着してから再度挙を構える作戦を提案した。久坂はこの案にやや賛意を示したが、真木、来嶋は受け容れず、結局、粟生光明寺の兵を山崎まで撤退するに止めた。京都留守居役乃美織江は、すぐさま七月九日にこの撤退について幕府へ報告している。七月八~九日、山崎の陣より真木、久坂らが、退去し難い理由を申し述べた陳状書及び防長士民嘆願書計三通を老中稲葉正邦に上呈した。

この防長士民嘆願書の中の「士民」という概念は、この時期、他藩ではおよそ考えられない発想であろう。文中には「(開国により)わずかの間に物価が騰貴し、日用品まで欠乏して民が飢えや寒さに直面している」「長防二国は愚婦小児の輩も攘夷の心構えができている」といった趣旨の文言がある。長州藩は恐らく最も早い時期に、攘夷運動を通じて封建的階級制度から脱却しつつあった。その地点から最も遠く、対極的な位置にあった藩が会津藩であろう。元会津藩士山川浩著「京都守護職始末」を読んでも、会津藩が尊攘派志士たちを全く「浮浪の徒」としてしか見做していなかった事がよく分かる。それほどこの本には尊王攘夷運動の背後にあった民衆の息吹が欠落している。こうした藩の特質の相違を把握しない限り、長州藩と会津藩が激しく敵対した理由は理解できない。

九日、朝廷でも、北小路三位従光、石山左京権大夫基夫ら九卿が、内裏の九門を閉ざし、禁裏に武器弾薬を運び込んだ会津藩を非難し、長州藩を擁護する意見書を上奏した。

同日、兵五百を率いて上京した国司信濃は、夕刻には山崎に到着して福原越後と会談した後、朝廷と幕府へ軍を駐留させる理由を申し述べた書状を、京都留守居役乃美織江を通じて上呈し、十一日には嵯峨天龍寺に入って駐屯した。この頃、幕府の命で諸藩の兵が続々と入京を開始し、京市中は騒然とし緊迫の度合いを強めていった。

対応に苦慮した慶喜は、十三日、長州留守居役乃美織江、因州留守居役大西定次郎、同対馬藩青木幾次郎を酒井若狭守の邸に招いて協議し、伏見の福原越後へ再度、在京の兵の退去を説得するよう命じた。乃美は、この時、慶喜に「三家老の内の一人でも入京を許し、総督自ら親しく説得してみてはいかがか」と逆に提案しているが、慶喜はまず命令を福原越後に伝えるべきと主張し、乃美の提案を受け容れなかった。

翌日、乃美織江は、因州藩河田佐久馬、松田正人、対馬藩士多田荘蔵とともに伏見の福原越後の陣を訪れ、説得工作にあたったが、効果はなかった。河田、松田、多田らは天龍寺の本営に集っていた来嶋又兵衛らの説得にもあたったが、来嶋は断固として拒絶した。

十五日、益田右衛門介が率いる約六百の兵が上京して石清水八幡宮の鎮座する男山に駐屯し、当初の予定通り京を包囲する陣容がほぼ整った。真木、来嶋、久坂らは男山の駐屯地を尋ね、作戦会議を開いた。この日、幕府は再度、期限を十七日とする撤兵命令を伏見の福原越後に下した。

一方、乃美織江の許には、十七日、山口からの急報が届いた。その書簡には、世子定廣、三条公以下五卿が十三日に山口を出発した事、志道聞多や伊藤俊輔によれば、英、米、仏、蘭等の連合艦隊が赤間関(下関)に襲来、さらに瀬戸内海を通過して京阪地域へ進出しようと目論んでいる等の情報が記されていた。乃美が、すぐさまこの件を上書して朝廷に伝えた。世子定廣と五卿が大挙して上京する事実が確実になると、動揺した朝廷では徹夜で朝議を続けた。十八日夜、有栖川宮幟仁、熾仁親王父子、中山忠能、橋本実麗らの公卿が参内し、有栖川宮父子は事態収拾のため、京都守護職松平容保の凝華洞からの放逐、橋本実麗も、容保の参内の差し止めを求めて上奏した。だが、こうした長州派の公卿の動きを察知した中川宮は容保に急報、容保は関白二条齊敬や慶喜に通報した。慶喜は二条城に近い宿所から馬で内裏に駆けつけ、主上の御前に伺候して討伐の勅令を賜った。長州側の逆転工作は、間一髪で阻止された。世子定廣の上京を報じた乃美の上書は、開戦を早めたという意味で結果的に逆効果となった。

十七日深夜、勧修寺家より呼び出された乃美が参内すると、公家諸卿ほぼ全員が朝議の席に着いていた。乃美はしばらく宮中で待たされ、十八日未明になって「議奏中納言六条有容の許で朝命を伝える」との命を受け、六条邸を訪れると、正親町三条実愛始め議奏、伝奏衆六人の公卿が列座していた。伝奏中納言野宮定功が十八日限りを以って撤兵すべき旨の朝命を朗読した。正親町三条実愛は穏やかな態度で、伏見に赴き撤兵を説得するよう諭した。乃美はなお議奏衆に家老一人の入京を懇請したものの、正式に朝命を奉受した以上、最早、交渉は不可能であった。別室で朝命拝受の一文を提出して内裏を退出した。

馬で伏見へ馳せ下るため、いったん京都藩邸に戻ると、桂小五郎が外出先から戻っていた。乃美は、桂に同行を求めると、桂は「来嶋などとは元々考え方が違う。来嶋は私を臆病者だと思っており、自分が行くと却って害になるだけだ」と言って断わった。そのため、乃美は一人で馬を跳ばして伏見の越後の陣に赴いた。福原越後は、旗指物に名前を大書するなどすでに合戦の準備を進めていた。乃美が朝命を伝えると、越後は参謀らを集めて会議を開いたが、乃美への回答は「今となっては如何ともし難い」というものであった。乃美は、天王山や嵯峨天龍寺にも朝命を伝えたが、益田、国司の両家老も「もはや止めることはできない」という回答であった。乃美は已むなく、朝命である撤退期限の一日延期を願い奉る上書を福原らに作らせて、藩邸へ帰った。万事休すである。

翌十八日、慶喜は乃美を呼び寄せ、本日中の兵の退去を命じる最後通牒を突きつけた。乃美は「自分が命令を伝えても効果はない、家老一人を入京させて説得してほしい」と従来の主張を繰り返した。その後、慶喜配下の幕臣より、さらに「撤兵しなければ明日追討の兵を差し向ける」と事実上の追討令が下された。乃美は已むなく慶喜の許を退出して、形式的に三家老に追討令を伝えた。

その後、乃美が京都藩邸に戻ってみると、山崎の長州藩陣中より、松平容保討賊の檄文が送られてきていて、使者より乃美へ京都所司代松平定敬へ提出するよう申し伝えられた。長州側からの京都守護職松平容保への宣戦布告文である。乃美は、在京諸藩にも、討伐の心情に理解を求める陳状書を提出することにした。藩邸に勤務していた椿彌十郎は川端亀之助と変名し、京都所司代と在京諸藩へ檄文と陳状書を持参して届けた。

長州軍はその前日十七日の午後、男山の石清水八幡宮の社務所において、三家老と参謀、真木、来嶋、久坂らが参集し、事実上最後の作戦会議を開催していた。十八日以降、留守居役乃美織江がどれほど交渉や周旋に奔走しようとも事態は最早全く後戻りできない状況になっていたのである。