深夜ラジオをたまに聴く。

能く聴くわけではない。
流しながら聞いてる(果たしてこの表現であってるのか?)と言った方が正しいのだが(正しいのか......)。

流し読みという言葉もある。聞き流しとなると意味が変わる。聞くともなしに聞いている、では長い。かと言って傍聞というのも少し違うだろう。

話を戻す。
つらつら聞いてるラジオでいうところの
『伊集院光の深夜の馬鹿力』の「今週気づいたこと」、『爆笑問題カーボーイ』での「思っちゃったんだからしょうがない」*みたいな感じの「日頃のこと。」

と。
本来であれば、生活している中でふと思いつき、ずるずる考えていることをぼんやりとまとめるのだが、

忘れてしまった。

何か考えていることに一応の決着がつき、でも人に話すほどでもないな、そう言えば最近文章を書いてないな、noteもブログも放りっぱなしだな、よしこれ書くか。
と、なったものの数行書いてるうちにフワフワァと消えてしまったのだ。
おもいだせない。
元々しょうもないことなら気軽に書けると思って書き始めたので記憶に残らないのも道理である。

人の記憶というのは面白いもので、その時の自分の状況も一緒におぼえてしまうものらしい。
考えていた時と同じ格好をしてみる、同じ場所にいってみるなどすると思い出せるものなのだという。

デジャヴというものも、その状況に紐付けられた記憶が出てきてしまうものなのだろう。
きっと脳は外界を認識するための判断材料として、記憶を使っているのだ。
「自然は芸術を模倣する」という言葉もあるが、
感じられる世界が記憶の寄せ集めでできているかもしれないと思うと、すこし面白い。

昔から物を考える時にはじっとしていられない性分だ。
具体的に言えば、歩き回りながら考え事をする。という事は思い出すためには歩くべきだろう。

別に散歩するわけではない。家の中をうろうろうろうろしながら考えるのだ。
同じ場にいる人からすれば、この上なく邪魔なものらしい。
家族からはよく「くまみたいにうろうろしてんじゃないよ」と叱られた。

この「くまみたいにうろうろする」という言い回しが好きで、ときたま自分が熊になった様を思い浮かべながらうろついている。

立って歩いている熊を見たことはないが、なんとなく情景が浮かぶ。他の動物では、こうはいかないだろう。
くまには「うろつく」という言葉がとてもよく似合っている。
大きく、動きが鈍そうで、そしてほんのり怖ろしい。そんな感じの響きがある。

この言葉は正確には「動物園のくまのようにうろうろする」という物らしい。
そう言われると、記憶にある檻の中のどうぶつたちは総じて落ち着きが無かったようにも思えてくる。
狭い檻を行ったりきたりする熊の記憶も捏造できるくらい、想像に難く無い。
本当に見た気がしてきた......

檻の中でうろつく話といえば、動物園で死んだ虎の代役をする噺が新作落語にあったかしらん。

虎は死んで皮を残す。人は......

記憶というのは、げに大事な物だ。

私は誰かにおぼえていてもらえるものだろうか、と思う。

あまり関係ないけど最近観た映画......