
ことしも又クリスマスがやってきた。
街はクリスマスツリーやイルミネーションで華やかである。カソリック信者が国民の90%を占めるフィリピンではツリーとともにキリスト降誕の飾り物もいたるところで目にする。
写真は時々いくマッサージパーラーの受付の飾りである。
クリスマスの季節は何かと物入りである。
親しい人へのプレゼントだけではなくクリスマスのチップも弾まなくてはいけない。メイドへは給料1か月分のクリスマス手当て。
近所の子供にもお小遣いを、ゴルフのマイキャディーにも特別のチップ、私がニノン(ゴッド・ファーザー)になっているあの子にも、そして行きつけの料理屋のチーフにもあげなくてはいけない。
時々庭の手入れを頼む男にも余分にチップを弾む。
ガードマンや新聞配達すらこの季節になると空の封筒を我が家にそっと置いていく。
その範囲が親戚だけではなく他人にも及ぶわけだから、日本にいた時よりも出費がかさむ。
そしてあの子にも特別に・・・。
私が何時も通る場所に1軒の粗末な板を貼り付けただけの3メートル四方くらいの掘建て小屋がある。父親は見かけたことがなく、母親と子供が4,5人いる(近所の子供も出入りしているから正確な人数がわからない)。
まさに極貧の家庭である。
しかしどんなに貧しくても、私が通りかかると何時もこどもたちの屈託のない笑顔が待ち受けていた。
私のことは良く知っているので、私が通りかかると何時も皆で「ハロー、Mr. Ming!」の合唱である。
しかし、その中で年長の女の子からいつの間にか笑顔が消えた。
学校があるはずなのに何時も家にいる。
あるとき、どうしたのか尋ねたらハイスクールに進学したが学校に行くお金が無いという。
でも学校は大好きだという。
フィリピンの公立学校では授業料は無料であるが、交通費、ユニフォーム代、そして時々「材料費」(Project Fee)という名目で徴収される費用は自己負担である。
教育省のデーターでもハイスクールに入学した生徒の1割か2割は入学後1年以内に経済的理由からドロップアウトしてしまう。
1ヶ月に2000ペソ(5000円ちょっと)程度は自己負担しなくてはいけない。
学校があるはずなのに何時も家にいる。
あるとき、どうしたのか尋ねたらハイスクールに進学したが学校に行くお金が無いという。
でも学校は大好きだという。
フィリピンの公立学校では授業料は無料であるが、交通費、ユニフォーム代、そして時々「材料費」(Project Fee)という名目で徴収される費用は自己負担である。
教育省のデーターでもハイスクールに入学した生徒の1割か2割は入学後1年以内に経済的理由からドロップアウトしてしまう。
1ヶ月に2000ペソ(5000円ちょっと)程度は自己負担しなくてはいけない。
それ以降、ささやかではあるがこの子の教育費を支援している。
日本にいた時の私では考えられないことである。
個人が個人を支えるよりも、必要なら歳末助け合いのようなところを通して寄付をしたり、困っている人がいたら国が面倒を見るべきじゃないかというのが私の考え方だった。
子供の海外での臓器移植のための寄付を募っていたりすると憎悪感すら抱いていた。
困っているのはその子だけじゃないんだぞって・・・。
個人が個人を支えるよりも、必要なら歳末助け合いのようなところを通して寄付をしたり、困っている人がいたら国が面倒を見るべきじゃないかというのが私の考え方だった。
子供の海外での臓器移植のための寄付を募っていたりすると憎悪感すら抱いていた。
困っているのはその子だけじゃないんだぞって・・・。
でもこの国に住むようになってから自分の考え方も変わった。
寄付を募る組織が、途中で金が消えて末端まで金が流れないという摩訶不思議な現実もあるが(?)、それ以上に個人同士が支えあうという考え方を学んだような気がする。
寄付を募る組織が、途中で金が消えて末端まで金が流れないという摩訶不思議な現実もあるが(?)、それ以上に個人同士が支えあうという考え方を学んだような気がする。
国民が等しく「高福祉、高負担」とは全く反対の思想である。
私が将来食うや食わずの困窮老人になったとしても、国は何も面倒を見てくれない。
でも、確実に近所の誰かが、「Ming、食事は食べたのか?」って聞いて施しをしてくれるはずである。
でも、確実に近所の誰かが、「Ming、食事は食べたのか?」って聞いて施しをしてくれるはずである。
貧しい国ではあるが、これがフィリピンの魅力なのである。
私はこういう社会が好きだ。
私はこういう社会が好きだ。
今日は癒しの日曜日である。