先日、「なぜ人の死は避けることができないのか」という

まだ4歳の子の疑問を記事にしました。

 

 

それに対して、多くの大人がまともに答えられない現状。

 

みんな生きることに必死だから死を考えないのか

死を考えることを恐れているのか

いずれにせよ全生命はいつか死ぬのだから

死に向き合うことは

生に向き合うことである

むやみやたらに怖がらずに生死観を自分の中に持っておくことは

命を与えられたものの義務ではないかと考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

私の家庭は両親が仏教を信仰していましたので

幼少期からその教えに触れることが多くありました。

今日は、私の霊的な学びの原点でもある仏教の観点から、

生死について、記事にしたいと思います。

 

仏教の教えは、生死観に関しては非常に論理的であると思います。

 

最近このブログでは、奇跡のコースについての記事が多いですが

高度な霊性の教えは最後は、形を超えて一つの真理になります。

ですから、形は奇跡のコースと仏教に分かれていても

最後に残る真理は一つであることを貫くために、他の霊性に関しても言及していきます。

 

インドから中国大陸経由で日本に伝来した仏教は「北伝仏教」「大乗仏教」と呼ばれますが

私の両親が信仰していたのはそのうちの一つの宗派に属します。

仏教にもさまざまな宗派がありますが、ここではその点に関しては論じないことにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生一度きり。

それは確かにそうです

しかしそれは、一人の人間・一つのパーソナリティーが、

一つの肉体だと考えればの話です。

皮膚で覆われタンパク質やカルシウムでできた有機物としての肉体は

役目を終えれば、機能しなくなる日が来ます。

有機個体としての人生は一度きりという意味です。

 

 

 

しかし、肉体が、生命の本質ではないとしたら?

かたちのない、魂が、生命の本質だとしたら。

 

ある個人としての生が終わり、肉体が役割を終えると、そこに宿っていた

「魂」は、次の肉体へ宿り、別の人生を生き始める。

 

は、とも言います。日本で「霊」は幽霊など成仏できず彷徨っているイメージが強いですが、

それも含めて、成仏できた全ての霊のことです。

 

次の生へ生まれ変わるという概念を【輪廻転生】と言います。

 

 

 

 

人は死んだらどうなりますか?

という疑問に対しての、一つの答えは

 

「次の生へ生まれ変わる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、何に生まれ変わるのか?

動物?植物?人間?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間だとしたら、どの国のどのような環境に生まれるのか?

貧乏人に生まれるのか?裕福な家庭に生まれるのか?

才能を持って生まれるか?そうでないか?

健康で?生まれつき体が弱く?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教では、生命の重さは皆同じと説きます

 

 

 

 

ならどうして、

生命は、生まれつき条件が異なるのか?

それでは生命は不平等ではないか?

次の生を決定づける法則はあるのか?

 

 

その問いに対しての答えは

 

 

 

生命は、平等です。

次の生がどのように決定されるかは

因果の法則がはたらき、カルマ(業)

によって決定づけられる。

 

 

 

過去世(生)が原因で、その結果が現世(生)

現世(生)が原因で、その結果が未来世(生)

 

 

 

 

 

過去の生でどのような人生を送ったかが原因となり、現世に結果となって現れる。

現在の生でどのような人生を送ったかが原因となり、未来世に結果となって現れる。

 

過去生で他の生命を傷つけたり、幸福を奪うようなことをすれば、

その結果として現在の生で自分が同じ目に遭う。

 

逆に過去生で社会に貢献し多くの生命を幸福にしたなら、

その結果として現在の生では恵まれた境遇に生まれ、苦労が比較的少ない人生を送れる。

 

これを聞いてすぐに思い浮かぶ言葉があると思います。

それは

 

 

 じ  ご  う   じ  と く

自業自得

 

これも、語源は仏教。

自分でしたことの行いは、自分で報いを受ける
これは、全てに言えることであり
大きな生命のサイクルにもそのまま当てはまっているのです。