昨日は図書館にある
博物館に行って来ました。
博物館の展示資料も
変わるという事が判りました。
半田市の風景です。
博物館には、
母親が私の為に代わりに
書いてくれていた日記の
第一頁が達筆過ぎて読めないので、
それを読んでもらいたいから行きました。
この日記は3冊あります。
一頁目には、“留志の歴史”
となっていました。
照れくさいですので、さわりだけ書きます。
留志の歴史
留志は私(宮井佳夫)と母光子との間に産まれた長男である。
宮井家は遠い昔は尾張からの出たらしい。
宮井家は遠い昔は尾張からの出たらしい。
戦国時代には織田信長の参謀 兼 ○隊長の様な地位にあった。
その以前の記録は清和源氏である。
宮井勘兵衛忠常は七人力の強弓を引き六角棒の達人であった。
此は現在の名古屋市の荒子である。
此は現在の名古屋市の荒子である。
荒子とは歩兵の駐屯所を当時荒子と称した。
忠常から曾祖父修次郎まで16代である。
忠常から曾祖父修次郎まで16代である。
修次郎長男佳多郎は17代で、父佳夫は、
佳多郎と下橋秀との間の長男である。
封建時代は現在の富山県氷見郡、東砺波郡、西砺波郡を
領有していた。
祖母 秀は天皇の直属の家来である。
下橋睦奥守(源氏)敬長の長女である。
母 光子は知多郡半田市に在る平家の末孫であって豪家な家柄である。明治大正時代には、小栗半右衛門と云えば知らぬ人もなき商家(醸造)であった。留志が母の胎内に在った時に母の左側と子宮底に各ー個いづれもがちょう卵大の筋腫があり妊娠6ヶ月頃、昭和39年2月18日半田市民病院にて開腹手術を実行して留志の安全を謀った。
同年7月9日 同市民病院にて帝王切開にて分娩させた。
9時50分出生。体重2900gであった。
母の健康回復と共に二週間后自宅に父と共に帰った。
留志にお祝いがあったので此のお返しに父母に抱かれて8月7日名鉄デパートに買い物に行った時、冷房が効き過ぎて顔や手足の色が変わったので父母は大変あわてた。
○の所は漢字がありませんでした。
私が亡き母親から
聞いた話ですが、
母の実家は醸造所を
営んでいたそうです。
半田市の順正寺の
前の通りにあった
造り酒屋は屋号で
中村屋と云われた
そうです。
戦前には大火で
焼失したそうです。
さて、
石川県の金沢の
21世紀歴史博物館にある資料に
幕末に藩に出した家系図に
先祖の名前が出ていました。
普通、家系図は
お寺にあるのですが、
父親も複写を取っていなく、
お寺も火事をだしてしまったので
残っていません。
ですので、自分が出来る限りに
やったつもりですm(__)m
右から二番目がお祖父ちゃんです。
今は何もありません。
お恥ずかしい話ばかりですが
記録として残したいと思いますm(__)m
博物館の事務所です。
学芸員の方が観てくれたのですが、
まだ、はっきりしない文字があるので
後日、詳しい方にみてもらおうと思います。
徳川家康由来の常楽寺も
レプリカが展示されていました。
こちらは母方の先祖です。
現半田高校の一部のようです。
さて、家に帰るとプランターに
キノコちゃんが生えていました。
どなたか!食べますか?
それも二個ですww
犬が食べてはいけないので、
ゴミ箱に入りましたよ(^^)/
宮井家は自分が最後しようと
思います。続けるのも力がいるが
閉じるのは、もっと力がいる。
先祖に恥じぬように我闘う(^o^)/
お後が宜しいようでm(__)m












