旧約聖書 | Il cello soltanto che billows

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旧約聖書を少し思い出す

神はアダマ(土)の塵からアダムを生んだ

蛇はエバに知恵の果実を誘惑した

エバは果実を口にした

エバはアダムにもそれを食べさせた

こう書かれていると女が男に罪を負わせているように見えるがそうじゃない

あのミケランジェロが描き続けた蛇は男の性器の象徴だ

それ故に蛇は男だ

果実を進めたのは結局の所男だ

そして果実を食べたアダムとエバは神にしかるべき罪を言い渡された

女は産みの苦しみを大いに増す

しかし、男は何もない

エバはカインと言う男を産んだ

そしてまたアベルという男を産んだ

そしてカインは嫉妬でアベルを殺した

旧約聖書の中には男が多い

蛇(男の象徴)を使わせたのは神かも知れない

果実を食べたのはアダムとエバだ

しかし、苦しみ罪を受けたのはエバだ

人を初めに殺したのは男だ

神は男か女か

神は一度この世界を創造した事を後悔している

神は全知全能ではないのか

神はまるで男のような卑怯さが見える(旧約聖書中で)

しかし、私達は真実に到達する事はない

神はいるのかいないのか

神は存在するか?を考える前に、神は複数なのか一人なのか。ユダヤ教では神は唯一の神ヤハウェであると言う。
しかし、旧約聖書の最初である創世記では人類創造の主は複数で表現されている。
これはどういうことか?
旧約聖書における人類創造は確かにアヌンナキによって行われた。アヌンナキ(天から降りてきた人々と言う意味)はもともと複数形である。
だからここで旧約聖書の創世記とは矛盾していない。
人類を創造した神=宇宙人アヌンナキは複数として存在したのである。
しかし、人間の考えている神という言葉はもっと崇高なもので宇宙人ではないでしょう。
それなら神は存在するか?の問いには神は存在しないという答えが出ます。また、なぜ同じ旧約聖書の中でその後の表現は全て”一神教”として表現されているのでしょうか?
 人類創造後の複数のアヌンナキが人間とともにグループを作り、人間との間に子供も生まれた。
しかし、グループ間の争いが絶えないのをみて、ヤハウェは、争いを防ぐために神はヤハウェ一人であると自ら名乗り出たのです。それ以降一神教のユダヤ教が発祥します。

神はいるのか。

イエス・キリストを神と呼ぶべきか?いいえ、キリストは進化した人間です。
「神」とは人間とはまったく違う崇高なもの、そして絶対的なものと言う意味があり、人間であるキリストは神ではない。
それなら本当の意味での神という言葉に相応しいものは存在するのか?近いものを選ぶとすれば、それは宇宙人ユミットの言う「宇宙の集合的魂」です。
これは聖書では触れていないものと思います。神は存在するのか? 結論は見送りとしますが、今まで神と呼んできたものは存在しないという答えが正解でしょう。

しかしこんな事を言ってもなんの意味もなくなってしまう
言葉がある
ドイツの哲学者ニーチェは言った

「神は死んだ」

この言葉で十分だ