今回は、第19代・允恭天皇の皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)について、歴史的事実に基づきながら、🐳と🦉が楽しくナビゲートします!

 

応神天皇の血を引き、允恭天皇の皇后として歴史に名を刻んだ女性。
その生涯には、豪族との因縁、皇子たちの運命、そして母としての誇りが秘められていました。
今回は、そんな姫の人生を年表とともに、ゆっくり解説していきます✨

 

 

 

 

📜年表(忍坂大中姫の主な出来事)

  • 出生:応神天皇の孫として誕生(生年不詳)

  • 允恭天皇と結婚(允恭天皇2年頃/443年頃)

  • 皇后に立后、名代部「刑部」設置

  • 闘鶏国造との因縁事件

  • 安康・雄略など多くの皇子を出産

  • 安康天皇即位とともに皇太后となる(允恭天皇42年/483年頃)


第一章:血筋と誕生

👸「応神の孫、息長氏の血を引く姫」

忍坂大中姫は、応神天皇の皇子・稚野毛二派皇子(わかぬけにわのおうじ)を父に、日本武尊の曾孫・弟日売真若比売命(おとひめのまわかひめ)を母に持つ、由緒正しき皇族の娘です。妹に弟姫(おとひめ)がいます。

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*忍坂大中姫①オリジナルイラスト

母の出身地は近江国・息長地方(現在の滋賀県坂田郡周辺)で、天野川流域を本拠地とした古代豪族・息長氏の娘でした。
神話に近い時代の「息長水依比売」や「神功皇后(息長帯比売命)」などがその名を冠しており、古代から皇族と深い関係を築いていた豪族の中でも特に有力で、姫の婚姻は政治的にも重要な意味を持っていました。

🦉💬
「息長氏は後の継体天皇にもつながる名門。姫の母系が近江というのは、古代の婚姻戦略の一端を示しているね」

🐳💬
「天野川流域は交通の要衝でもあり、古代の政治・文化の交流拠点だったんだ」

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第二章:允恭天皇との結婚

👑「皇后としての歩み」

允恭天皇2年(443年頃)、忍坂大中姫は皇后として正式に立后されました。

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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「允恭天皇」

この時、姫の名代部として「刑部」が設置されます。
名代部とは、皇族の生活を支えるために設けられた部民制度で、姫の影響力の大きさを物語っています。
刑部には、熊本県葦北地方が含まれていた可能性があり、当地から産出される阿蘇ピンク石が姫の古墳に使われたとする説もあります。

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東乗鞍古墳の石室と阿蘇ピンク石石棺

🐳💬
「ピンクの石って、なんかロマンチック~!」

🦉💬
「阿蘇ピンク石は、九州から大和への交易ルートを示す貴重な証拠。姫の名代部が九州に及んでいたなら、かなりの権勢だね」

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第三章:闘鶏国造との因縁

😡「若き日の屈辱と赦し」

姫が若い頃、苑で遊んでいた際に、闘鶏君(つげのくにのきみ)に無礼な言葉をかけられたという逸話があります。

闘鶏君👨💬
「お前、庭づくりが上手なのか?召使に命じて蘭を一本取ってこい」

姫👸💬
「なんて無礼なっ…!あなたの顔、私は決して忘れないわ」

 

皇族の姫に対して、この時に既に闘鶏君は無礼な行動をしています。

そして後に皇后となった忍坂大中姫は、その国造を探し出し、死罪にしようとしますが、最終的に彼の謝罪を受け入れ、姓を「稲置(いなぎ)」に改めさせ、その身分を闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)とすることでその不敬罪を許しました。

🐳💬
「どういうこと?」

🦉💬
「それじゃあ、古代の氏姓制度について解説するね」

🦉 🏷️八色の姓以前の古代の姓制度(氏姓制度)

古代日本では、「氏(うじ)」と「姓(かばね)」の二つがセットで使われていて、これを「氏姓制度」と呼んでいたよ。
🧭基本構造

  • 氏(うじ):一族の名前。血縁や職能で構成される集団。例:蘇我氏、物部氏、大伴氏など。

  • 姓(かばね):天皇(大王)から与えられる称号。氏の格式や役割を示す。


🏷️主な姓とその身分(高い順)

  1. 臣(おみ)
     → 天皇に仕える政治的豪族。大王の子孫を称することも。
      例:蘇我氏、大伴氏など。

  2. 連(むらじ)
     → 神々の子孫を称する氏族。軍事・祭祀を担う。
      例:物部氏、中臣氏など。

  3. 君(きみ)
     → 地方豪族に多く見られる姓。地域支配者としての性格が強い。
      例:闘鶏君、葛城君など。

  4. 直(あたい)
     → 技術職や奉仕系の氏族。中央よりも地方に多い。
      例:土師直、膳直など。

  5. 造(みやつこ)
     → 特定の職能や技術に特化した氏族。
      例:鞍造(馬具職人)、錦部造(織物職人)など。

  6. 国造(くにのみやつこ)
     → 地方の支配者。ヤマト王権に従属しつつ、地域統治を任される。
      例:出雲国造、闘鶏国造など。


🐳💬
「なるほど!つまりは降格処分ということだね。それにしてもずっと屈辱を忘れなかった忍坂大中姫は、非常に気位の高い人だったんだね」

🦉💬
「そうだね。ただ、過去の事とはいえ、古代の王権社会では、皇后=天皇の象徴的存在でもあり、無礼は王権への挑戦と見なされる可能性があった
闘鶏国造に対して死罪や一族連座もあり得た状況だったのに、忍坂大中姫が降格処分で許したのは寛容な裁きだったと思うよ」

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第四章:皇子たちと母としての誇り
「安康・雄略を育てた母」

忍坂大中姫は允恭天皇との間に多くの皇子・皇女をもうけました。
中でも、安康天皇(第20代)雄略天皇(第21代)は後に即位し、姫は皇太后としてその治世を見守ることになります。

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*忍坂大中姫②オリジナルイラスト

木梨軽皇子との皇位争いなど、姫の子たちの運命には波乱もありましたが、姫自身は政治の表舞台には出ず、母としての役割を果たしたと考えられています。

🦉💬
「雄略天皇は『日本書紀』でも強烈な性格で知られているけど、そんな彼を育てた姫の影響も気になるね」

🐳💬
「雄略天皇はお母さんに似たのかもしれないね」

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第五章:禁断の愛と姉妹の葛藤

🔥「弟姫と允恭天皇の密やかな関係」

忍坂大中姫の妹・弟姫は、古代随一の美貌を持つ女性として知られ、允恭天皇の心を奪いました。

 

 

皇后の嫉妬を避けるため、弟姫は宮中には入らず、藤原宮や茅渟宮に住まわされ、天皇は“狩猟”を口実に通いました。弟姫は正式な側室ではなく、あくまで寵愛された女性=愛人の立場でした。

👸忍坂大中姫💬
「近頃、随分と狩猟が多いですこと」

👑允恭天皇💬
「き、気のせいじゃないかな💦」

 

ところが雄略天皇の出産時、允恭天皇が弟姫のもとへ行幸したことで、皇后が大激怒し、産殿を焼こうとしたという逸話も残っています。

🐳💬
「奥さんが出産の時に愛人宅へって…いくら帝でもそれは怒られるよ。でも産殿炎上は、まさに古代の修羅場…🔥」

🦉💬
「この後、さすがに諫められて行幸は稀になったというよ」

🐳💬
「それでも浮気はやめないんだね」

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第六章:静かなる威厳

允恭天皇の崩御後、忍坂大中姫は安康天皇の即位とともに皇太后の待遇を受けます(483年頃)。*制度化は律令制制定後

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*忍坂大中姫③オリジナルイラスト

その後の記録は少ないものの、姫の存在は皇室の安定に寄与したと考えられています。

姫の古墳は奈良県桜井市忍坂にあるとされ、忍坂地域は姫の名に由来するとも言われています。

🦉💬
「忍坂大中姫の物語はどうだった?」

🐳💬
「姫は王権と地方豪族の結びつきを象徴する存在であり、母として、皇后として、そして一人の女性として、古代史に深い足跡を残した人物だったね」

🦉💬
「そうだね。誇り高さと、朝廷に必要な人材だからこそ比較的軽い処分で済ませる政治的判断力を兼ね備えた人だったね」

🐳💬
「でも、産殿炎上が頭から離れないよ。でも、現代よりずっとリスクが高い命懸けの出産の際に、夫が妹と浮気してるなんて耳にしたら激怒するに決まってるよね」

🦉💬
「雄略天皇が誕生の際には神々しい光が宮殿に満ちたという伝説が…」

🐳💬
「え…それって…燃え上がった🔥の明るさだったんじゃないの?」

🦉 🐳「……」

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今回は、5世紀末の皇族・飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)について、歴史的事実に基づきながら、🐳と🦉が楽しくナビゲートします!

 

古代日本に実在したかもしれない、最初の女性天皇。
記紀に記されながらも、正式な天皇とはされなかった飯豊青皇女。
その生涯と歴史の謎を、ゆっくり解説していきます!

 

 

 

📜年表(ざっくり時系列)

  • 允恭天皇29年頃(440年頃):誕生。履中天皇の皇女または市辺押磐皇子の王女とされる。

  • 第22代清寧天皇の崩御(479年頃):皇位継承が未定となり、飯豊青皇女が政務を執る。

  • 約10か月間の執政:記紀では天皇とはされないが、政務を担当。

  • 死去(480年頃):『日本書紀』では「崩御」と記され、天皇扱い。

  • 陵墓:奈良県葛城市の埴口丘陵に葬られる。


第一章:出自の謎

🔵「履中天皇の皇女?それとも市辺押磐皇子の娘?」

飯豊青皇女の出自には実は諸説あります。
『古事記』では履中天皇の皇女、『日本書紀』では市辺押磐皇子の王女とされ、どちらも有力な皇族の血筋です。
名前も多く、「飯豊皇女」「青海皇女」「忍海郎女」など、地名や色彩に由来するものが見られます。

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*飯豊青皇女① オリジナルイラスト

特に「青」は翡翠や神聖な水のイメージを持つことから、巫女的な役割を担っていた可能性もあります。


🎨古代日本の色の感覚とは?

🌀色は「意味」だった!

古代では「白」「黒」「赤」「青」が基本の色とされていて、それぞれに精神的・象徴的な意味がありました。

〇白(しろ):明るさ・清浄・神聖。雪や月など、美の象徴でもありました。

◉黒(くろ):暗さ・深さ・死や静寂を象徴。

🔴赤(あか):生命力・情熱・神事に使われる色。

🔵青(あお):漠然・神秘・水や空のイメージ。昔は「緑」も含んでいたんだよ!

 

 🐳💬
「飯豊青皇女の『青』は、神聖な意味があったんだね」

🦉💬
「この頃はまだ斎宮制度はなかったけれど、飯豊青皇女はこれに准じる役目を担っていた可能性が高いんだ」

斎宮制度が正式に確立されたのは天武天皇の時代(7世紀後半)

 

 

第二章:幻の女帝

🔵「清寧天皇の死後、政務を執った女性」

清寧天皇が崩御した後、皇位継承者が未定だったため、飯豊青皇女が政務を執ったと『日本書紀』に記されています。

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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「清寧天皇」

その期間は約10か月。

正式な即位はしていないものの、死去時には「崩御」と記され、天皇と同等の扱いを受けています。
後世の『扶桑略記』では「第24代女帝」として記されており、神功皇后と推古天皇の間をつなぐ存在として注目されています。

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『扶桑略記』第21巻

🏯忍海角刺宮での執政🦉💬

飯豊青皇女は奈良県葛城市の忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)で政務を行ったとされているよ。

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角刺神社(奈良県葛城市) 忍海角刺宮伝承地。

『古事記』では、皇嗣がいなかったために飯豊青皇女が執政していたが、後に播磨から億計・弘計の兄弟が発見され、皇位を譲り合ったという流れになってるんだ。

『日本書紀』では、兄弟はすでに宮中にいたとされ、飯豊青皇女はその代理として政務を預かったという描写になってる。
つまり、記紀で描写が食い違ってるんだよね。

 

🐳💬
「兄弟が譲り合ってる間に、飯豊青皇女が“ちょっとだけ”政務を担当したってこと?」

🦉💬
「いわゆる天皇と天皇の空白期間を埋めるための中継ぎの役目を飯豊青皇女は担っていたんだ」


 

📜後世の評価と女帝説🦉💬

記紀では天皇としては認められていないけれど、後世の史書『扶桑略記』では「第24代女帝」として記されているんだ。

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*飯豊青皇女② オリジナルイラスト

さらに『本朝皇胤紹運録』や『先代旧事本紀大成経』では「飯豊天皇」や「清貞天皇」という諡号まで与えられていて、事実上の女帝として扱われているのがわかるよ。

このことから、飯豊青皇女は神功皇后と推古天皇の間をつなぐ、女帝の先駆け的存在として注目されているんだ✨

 

第三章:陵墓と称号

🔵「埴口丘陵に眠る女帝」

飯豊青皇女は奈良県葛城市の埴口丘陵(北花内大塚古墳)に葬られたとされ、宮内庁では「飯豊天皇」として管理されています。

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飯豊天皇 埴口丘陵 (奈良県葛城市)

これは、記紀では天皇とされていないにもかかわらず、陵墓の扱いでは天皇として認められているという、興味深い矛盾です。
このことからも、彼女が実質的に天皇としての役割を果たしていた可能性が高いと考えられています。

🐳💬
「現代では皇室でも尊敬されているんだね」

🦉💬
「古墳は権力者の象徴だから、当時からしても飯豊青皇女の地位の高さがわかるね」

 

第四章:巫女説と歴史秘話

🔵「神託を伝える存在だった?」

民俗学者・折口信夫氏は、飯豊青皇女を巫女的存在とし、神託によって皇位継承者を示したとする説を唱えています。
古代の女性が神と人をつなぐ役割を果たしていたことを考えると、彼女の政務も神聖な儀式の延長だった可能性があります。

画像
*飯豊青皇女② オリジナルイラスト

また、彼女の名に「青」や「海」が含まれることから、水や神秘性とのつながりも指摘されているんです。

🐳💬
「神託によって継承者を決めるというのは、卑弥呼や台与のような霊力的価値観が古墳時代にも重視されていたことが分かるね」

🦉💬
「そうなんだ。折口信夫氏の学説はまさに弥生時代の価値観の延長であり、ヤマト政権がこの文化を引き継いだ証とも言えるね」

ただし注意点もあるよ📝


折口氏の説は記紀に直接的な巫女的描写がない飯豊青皇女に対して、民俗学的・象徴的な解釈を加えたものだから、史料的な裏付けは薄いとも言われてるんだ。
でも、古代の女性皇族が神事に関わっていた例(神功皇后や倭姫命など)はあるから、文化的な流れとしては十分に説得力があるんだよ✨

 

 

🏁まとめ

飯豊青皇女は、記紀では正式な天皇とはされていないものの、政務を執り、崩御と記され、陵墓も天皇扱い。
後世には女帝として記されるなど、古代日本における女性の政治的役割を考えるうえで非常に重要な人物です。

🐳💬
「推古天皇が史上初の女帝だと思っていたけれど、飯豊青皇女も短くとも天皇の役割を果たした人だったんだね」

🦉💬
「正式な即位の記録が無いとは言え、彼女がいたからこそ天皇の空白を埋め、政治が滞らなかったことは国の安泰に繋がったんだ。
飯豊青皇女は生涯を国のために捧げた偉人だったんだよ」


 
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今回は、第17代・履中天皇の皇后・黒媛(くろひめ)について、歴史的事実に基づきながら、🐳と🦉が楽しくナビゲートします!

 

彼女の人生は、兄弟の争い、愛と誤解、そして突然の死に彩られた波乱の物語。
古代日本の宮廷で、静かに、しかし確かに歴史を動かした女性の姿に迫ります。


 

 

📜黒媛の年表(簡易まとめ)

  • 出生:葛城氏の娘として誕生(年代不詳)

  • 婚姻:履中天皇の皇后となる(履中天皇元年頃)

  • 事件:住吉仲皇子による偽装訪問と関係(履中天皇即位前)

  • 即位:履中天皇、黒媛を正式に皇后に迎える(履中天皇元年)

  • 子ども:磐坂市辺押磐皇子・御馬皇子・飯豊青皇女を出産

  • 死去:履中天皇5年(推定404年)、急死


第一章:「葛城の娘、黒媛」

🌸名門の血を引く静かな花

黒媛は、古代豪族・葛城氏の娘として生まれました。
父は葦田宿禰(または羽田矢代宿禰とも)とされ、祖父は葛城襲津彦。
つまり、仁徳天皇の前皇后・磐之媛命の姪ということになります。

 

 

『古事記』では「黒比売命」と記され、格式ある女性だったことがうかがえます。

画像
*黒媛① オリジナルイラスト

彼女の美しさと品位は、宮廷内でも評判だったようで、履中天皇(去来穂別皇子)が皇太子だった頃から目をかけていたと伝えられています💕

仁徳天皇が崩御すると、即位を間近に控えた去来穂別皇子は正式に黒媛と婚約します。そして、婚儀の吉日が決まりました。

画像
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「履中天皇」

 

去来穂別皇子(履中天皇)👨💬
「弟よ。黒媛のところに婚儀の日時を知らせてくれないか」

 

住吉仲皇子👨💬
「承知いたしました」

 

しかし、その後、事件が起きます。

 

第二章:「偽りの訪問、鈴の音の真実」

💕兄弟の争いと黒媛の運命

その夜。皇太子の弟の住吉仲皇子が黒媛のもとを訪れます。


婚姻の日時を伝えるのかと思いきや、なんと自分は太子だと偽り、姫の寝所に入ってしまいました。
黒媛は住吉仲皇子を太子だと信じて迎え入れ、関係を持ってしまいます。

 

当時は古墳時代であり、「火皿」に灯芯を浸して火を灯す「灯台」という道具が使われていましたが、それもぼんやりと陰影が分かる程度であり、室内全体を明るく照らすものではありませんでした。

 

宵闇のなかで密かに想いを遂げた住吉仲皇子でしたが、彼は黒媛のもとに鈴を置き忘れるという重大なミスをおかしました。

画像
*黒媛② オリジナルイラスト

 

🦉💬
鈴は古代の装飾具で、身分を示すものでもあったんだ」

 

翌日、本物の皇太子(履中天皇)が訪れた際、前夜に住吉仲皇子が置き忘れた鈴の音が鳴りました。
古墳時代の鈴は、男性の装飾具として使われることが多かったため、当然、太子は不審に思います。

 

去来穂別皇子(履中天皇)👨💬
「姫よ。これは何だ?」

 

黒媛👸💬
「昨夜、私のもとへお越しになられた際に、太子が持ってこられた鈴ではないですか。何故、そのような事をお尋ねになられるのですか?」

 

去来穂別皇子(履中天皇)👨💬
「……」

全てを察した履中天皇は、黒媛には何も言わずにその場を去ったと『日本書紀』に記されています。

 

🐳💬
「信じて使者に立てた弟に、太子は裏切られちゃったんだね。住吉仲皇子は怒られただろうな」

 

🦉💬
「叱られて済む問題じゃないよ。
まだ入内していないとはいえ、黒媛は即位を間近に控えた皇太子の寵愛する女性だ。その彼女に手を出したということは、天皇の権威に挑む大逆罪でもあったんだ」

 

🐳💬
「大逆罪!?」

 

🦉💬
「鈴を忘れたことに気づいた住吉仲皇子は、もうお終いだと自暴自棄となって、ついには皇太子の宮を包囲し焼いた」

 

🐳💬
「武装蜂起しちゃったの!?」

 

🦉💬
「あわよくば自分が即位し、皇位も黒媛も手に入れようとしたんだと思う。
しかし、皇太子はこの時は既に宮を脱出しており、体制を立て直すと反乱を鎮圧するべく軍を率いたんだ」

 

第三章:「皇后としての誇り」

👑静かなる再会と即位

その後、履中天皇は住吉仲皇子の反乱を鎮め、黒媛を正式に皇后として迎えます。この選択には、政治的な安定を図る意図もあったと考えられています。

画像
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「履中天皇」

略奪愛という情けない理由による今回の反乱で、皇室の威信が揺らいだことは確かです。黒媛を正式に皇后にすることで、履中天皇の寛容さを宮中内外に示すことになりました。

また、履中天皇の母・磐之媛命は非皇族出身の皇后として苦悩しました。
だからこそ同じ葛城氏の娘を皇后とすることで、自身の正統性、そして母が皇后であったことへの正統性を強化したと考えられます。

黒媛は皇后として、磐坂市辺押磐皇子・御馬皇子・飯豊青皇女を産み、後の皇位継承にも関わる重要な母となりました。
とくに飯豊青皇女は、後に女帝的な役割を果たす人物として注目されています。

 

 

 


 

第四章:🕊️「突然の死と祟りの影」
静かなる終焉

履中天皇5年(推定404年)、天皇が淡路島へ狩りに出かけていた時、急使が黒媛の死を知らせに来ます。

画像
*黒媛③ オリジナルイラスト

天皇は驚き、すぐに狩りを中断して宮に戻ったと記録されています。

その後、天皇は「神の祟りではないか」と悔やみ、原因を探った結果、車持君が関係しているのではと詮議が行われたという話も残っています。

🐋💬
「車持君?」

🦉💬
「筑紫(九州地方)に車持部という部民がいてね、大王の輿輦の製作、管理などを司っていたんだ。
その車持部を管轄していたとされるのが車持君と呼ばれる役職だった

🐋💬
「その車持君の何が黒媛の急死に関係があるの?」

🦉💬
「実はその車持君が職権乱用して車持部を好き勝手に使役し、別儀として宗像神社に仕えていた車持部まで己の支配下に置いちゃったんだ。
これが、黒媛の死の直後に発覚したため、神々の怒りが祟りとなって皇室に禍をもたらしたと考えられたんだ」

これは現代の感覚では不思議ですが、古代では「神の祟りは関係者全体に及ぶ」という考え方があって、宮廷の誰かが罰を受けることで神意を鎮めるという信仰がありました。

黒媛は皇后という重要な存在だったため、神の怒りが最も象徴的に現れたと見なされたのかもしれません

 

🏁まとめ:黒媛という存在

黒媛は、古代日本の宮廷で静かに、しかし確かに歴史を動かした女性でした。彼女の人生は、愛と誤解、政治と誇り、そして突然の死に彩られています。
その姿は、まるで水面に映る月のように、儚くも美しいものだったのかもしれません。

🐋💬
「真実はさておき、まるで自分がきちんと監督していなかったから妻が死んでしまったと履中天皇は悔やんだだろね」

🦉💬
「まさにその通りで、履中天皇は、黒媛の死の原因を「神の祟り」と考え、車持君の行動を厳しく調査した結果、処分を下したんだよ」


🦉 🚫車持君への処分内容


🦉 📜『日本書紀』によると…

  • 車持君は、筑紫国の車持部を勝手に検校(けんぎょう=監督)し、さらに宗像神社に奉仕する神聖な車持部まで奪ったことが発覚。

  • 履中天皇はこれを「二重の罪」として数えたんだ。

🦉 ⚖️処分の詳細

  1. 筑紫の車持部の管轄権を剥奪
     → 車持君は以後、筑紫の車持部を掌握することを禁じられた。

  2. 車持部を三神に奉仕させるよう再編成
     → 神々への奉仕を回復するため、車持部は神のために再分配された。

  3. 禊(みそぎ)を命じられた
     → 車持君は「悪解除・善解除」として、長渚崎で禊を行うよう命じられた。これは神の怒りを鎮めるための儀式だね。


🐋💬
「うわぁ…神様に怒られると、部民まで再編されちゃうのか~」

🦉💬
「このことからも履中天皇は、神意を重んじて制度を整えた実務派の王だったことが分かるね」


 

🦉🐋「最後まで読んでくださってありがとうございました!」

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今回は、第16代・仁徳天皇の継室・八田皇女(やたのひめみこ)について、歴史的事実に基づきながら、🐳と🦉が楽しくナビゲートします!


兄の苦悩と遺言、嫉妬深い皇后、そして静かに流れる皇女の運命――
八田皇女の生涯を、年表とともにじっくり解説します✨

 

 

 

 


📜年表(八田皇女の主な出来事)

  • 応神天皇の皇女として誕生(生年不詳)

  • 菟道稚郎子の妹として育つ

  • 菟道稚郎子の遺言により仁徳天皇の妃候補となる

  • 磐之媛命の嫉妬により宮中入りを拒まれる

  • 仁徳30年:磐之媛命の留守中に宮中入り

  • 仁徳35年:磐之媛命死去

  • 仁徳38年:正式に皇后となる

  • 墓所は奈良市法華寺町「宇和奈辺陵墓参考地」とされる


第一章:皇女の誕生と血筋

🏯応神天皇の娘として生まれて

八田皇女は、第15代応神天皇と側室・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の間に生まれました。

画像
応神天皇と近侍の武内宿禰 江戸時代、誉田八幡宮 蔵

 

兄には菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)、姉には雌鳥皇女(めとりのひめみこ)がいます。

母の実家である和珥氏は古代豪族の中でも有力な氏族で、物部氏や鴨氏と並ぶ神別氏族のひとつ。天孫降臨の系譜に連なる名門でした。

応神天皇の子女の中でも、八田皇女は特に穏やかで聡明な人物として知られていました。

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*八田皇女① オリジナルイラスト

兄・菟道稚郎子は父の応神天皇の寵愛を最も受けた皇子で、正室腹の兄皇子・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)を差し置いて皇太子に立てられました。

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莵道稚郎子(『前賢故実』より)

しかし、菟道稚郎子は正統な嫡出の兄を差し置いて自分が跡継ぎとなったことや、父帝が兄を蔑ろにしていることに心を痛め、苦悩した末に自ら命を絶ってしまいました。

その際、八田皇女を大鷦鷯尊の妃に迎えるよう遺言を残したのです。

父の意向に沿って自ら身を引くほどに優しい性格だった大鷦鷯尊は、異父弟の悲劇の死に嘆き悲しみます。
そして、菟道稚郎子の遺言を守るべく、八田皇女を妻に迎えることを約束しました。

🐳💬
「菟道稚郎子の最後のお願いが、異母兄に“妹を嫁にしてくれ”って…なんか切ないけど、ちょっと複雑だねぇ~」

🦉💬
「それだけ八田皇女が信頼されていた証拠だよ。皇位の安定を願った兄の深い思いだね。もしかしたら、異父兄への謝罪と彼を天皇にリスペクトする意味もあったんじゃないかな」

 

第二章:宮廷の嫉妬と静かな対立

👸皇后・磐之媛命との確執

大鷦鷯尊は仁徳天皇として即位後、磐之媛命を皇后に立てていました。

画像
*仁徳天皇(イメージイラスト)

 

磐之媛命は仁徳天皇が皇子時代からの糟糠の妻であり、名門豪族の出ではありましたが皇族の出ではありませんでした。

 

 

 

磐之媛命は、当時は皇族出身者に限定されていた皇后の地位に、『想定外の皇后』として立后したためか、自身の地位を脅かすような後宮の女性を許しませんでした。また、誰よりも仁徳天皇を深く愛していました。

👑仁徳天皇「あ、あのさ、菟道稚郎子の遺言を叶えてあげたいと思うんだ。八田皇女を後宮に――」

👸磐之媛命「は?」

👑仁徳天皇「何でもありません」

 

仁徳天皇は八田皇女を迎えたいと願いながらも、磐之媛命の怒りを恐れて長らく実現できませんでした。

しかし仁徳30年、磐之媛命が皇居を離れていた隙に、八田皇女は宮中に迎え入れられます強硬手段です。

👑仁徳天皇「今のうちだ。入内すれば皇后もきっと分かってくれる。…たぶん…」

 

しかし、夫帝が皇后である自分に無断で八田皇女を側室に迎えたことに磐之媛命は大激怒。怒った磐之媛命は宮中から退去し、筒城宮に移り住んでしまいます。そのまま帰らず、仁徳35年に亡くなりました。

そして仁徳38年、八田皇女は正式に皇后となりました。

🐳💬
「磐之媛命、怒って帰ってこないって…まるで家出した奥さんみたいだねぇ」

🦉💬
「仁徳天皇自身は亡き異母弟の願いを叶えたいという想い(下心もあったと思うが)八田皇女を後宮に迎えたんだ。けれど、実はその行為は、非皇族の出の磐之媛命の立場を脅かすものでもあったんだ」

🐳💬
「八田皇女を後宮に迎えたら、自分や自分が産んだ子ども達がどうなるか、何故夫帝は理解してくれなかったんだという悲しみと憤りがあったんだね」

第三章:皇后としての静かな時代

八田皇女の名代とその影響

八田皇女が皇后となった後、彼女の名代として「八田部(やたべ)」が設置されました。

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*八田皇女② オリジナルイラスト

これは古墳時代の部民制度の一環で、皇族や有力者の名を冠した集団が、王権に奉仕する役割を担っていました。

八田部氏は物部氏や鴨氏の系統に属し、各地に分布していました。彼女の影響力は、静かに広がっていたのです。

🏘️名代とは?

名代とは、皇族や王族の名を冠した奉仕集団で、農業や工芸、軍事などの役割を持ち、大王直属の労働力・資源供給源として機能していました。八田皇女の名代である八田部は、彼女の地位の高さと、子を持たなかった彼女の名を後世に残すための制度的措置とも言われています。

 

🧬八田部氏の系譜と分布

『新撰姓氏録』によると、八田部氏(矢田部氏)は以下のような系譜を持ち、物部氏や鴨氏の系統に属する氏族として、各地に分布していました。

🗺️八田部氏の分布と系譜(『新撰姓氏録』より)

  • 左京

    • 系譜:神別・矢田部連

    • 始祖:伊香我色乎命の後

  • 山城国

    • 系譜:神別・矢田部

    • 始祖:鴨建津身命の後

  • 大和国

    • 系譜:神別・矢田部

    • 始祖:饒速日命七世孫・大新河命の後

  • 摂津国

    • 系譜:神別・矢田部造

    • 始祖:伊香我色雄命の後

  • 河内国

    • 系譜:神別・矢田部首

    • 始祖:饒速日命六世孫・伊香我色雄命の後

 

 🏞️第四章:眠る場所と伝承

宇和奈辺陵墓参考地の謎

八田皇女の墓とされるのは、奈良市法華寺町にある「宇和奈辺陵墓参考地」。ただし、これは宮内庁による正式な治定墓ではなく、伝承に基づくものです。

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宇和奈辺陵墓参考地(奈良県奈良市) 八田皇女墓伝承地。

この場所は静かな住宅地の中にあり、訪れる人も少ないですが、古代の皇女が眠る場所として、歴史ファンには知られています。

🐳💬
「“参考地”ってことは、昔の人が“ここが八田皇女の墓じゃないかな?”って伝えてきた場所なんだね~。地元の人の記憶って、けっこう大事なんだねぇ」
 
🦉💬
「そうだね。古代の墓所は文献や地名、地元の伝承に頼ることが多いんだ。宮内庁が正式に治定していない場合でも、地域の語り継ぎが歴史の手がかりになることはよくあるよ」

 

🌊まとめ:静かに流れる皇女の物語

八田皇女の生涯は、激しい争いや派手な逸話こそ少ないものの、皇位継承や宮廷の人間関係に深く関わる重要な存在でした。兄の遺言、嫉妬に満ちた宮廷、そして静かに皇后となった彼女の姿は、まるで水面下で流れる深い川のようです。

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*八田皇女③ オリジナルイラスト

🐳💬
「ハ田皇女は亡き兄の願いを叶えるために仁徳天皇に嫁ぎ、仁徳天皇も亡き弟の思いを酌んで八田皇女を妻に迎えた。
二人は夫婦というよりも皇室を守るためのソウルメイトだったかもしれないね」

🦉💬
「そうだね。仁徳天皇と八田皇女との間に子どもはなく、磐之媛命の所生の皇子たちが天皇として即位していったから、彼女もまた自身の役割を深く理解していた聡明な女性だったと思うね」

 

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元記事リンク *当記事はnoteブログのコピー版になります。

 

 

 

 

今回は、第16代・仁徳天皇の正妃・磐之媛命(いわのひめのみこと)について、歴史的事実に基づきながら、🐳と🦉が楽しくナビゲートします!

古墳時代、仁徳天皇の正妃として君臨した磐之媛命。
嫉妬の逸話ばかりが語られる彼女の実像とは?
3人の天皇の母として、そして葛城氏の娘として、彼女が果たした役割を、史料と歌から紐解きます。

 

 

 

📜年表:磐之媛命の歩み

  • 🏞 生年不詳:葛城襲津彦の娘として誕生(葛城氏の名門)

  • 👑 仁徳天皇2年(約314年):皇后に立てられる

  • 👶 履中・反正・允恭天皇らを出産(皇統の母)

  • 😠 仁徳天皇30年(約342年):八田皇女との関係に激怒し別居

  • 🏯 筒城宮に移り住み、仁徳天皇と面会せず

  • 🪦 仁徳天皇35年(約347年):筒城宮にて崩御

  • 🏺 奈良県ヒシアゲ古墳に埋葬(独立した陵墓)


第一章:「皇后への道」

当時、第15代・応神天皇には二人の皇子がありました。

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応神天皇と近侍の武内宿禰 江戸時代、誉田八幡宮 蔵

 

正妃・仲姫命との間に生まれた嫡皇子・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)。後の仁徳天皇です。

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『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分) 1886年(明治19年)楊洲周延 画


そして、側室・宮主矢河枝比売(河内豪族の娘)との間に生まれた庶皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)。

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莵道稚郎子(『前賢故実』より)

ところが、応神天皇は庶子で次男の菟道稚郎子を溺愛し、皇太子にしてしまいました。

 

🐳💬
「えっ!?古代って、正室の長男を差し置いて、側室の子を跡継ぎにするのが“普通”だったの?」

🦉💬
「実はね、『正室の長男=嫡子=当然の後継者』という明確な制度は、古代にはまだ確立されていなかったんだ。皇位継承は血筋だけじゃなくて、父の寵愛・政治的支持・豪族との関係など、複合的な要素で決まっていたんだよ。だから、側室の子が皇位を継ぐことも珍しくなかったんだ」

 

🌸民間から皇后へ

そんな背景があったうえで、今回の主役・磐之媛命は、古代豪族・葛城氏の娘として誕生します。

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*磐之媛命① オリジナルイラスト

父は葛城襲津彦、祖父は武内宿禰という豪族の中でも名門の血筋。
祖父の武内宿禰は景行天皇から天皇に仕えるヤマト朝廷の忠臣でした。

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武内宿禰(菊池容斎『前賢故実』、明治時代)

葛城氏の支配地は、主に大和国葛城地方で、現在の奈良県御所市、葛城市、大和高田市、香芝市、北葛城郡の一部にあたる地域です。
葛城地方は、大和国から紀ノ川を経て紀伊国(現在の和歌山県)や瀬戸内海に通じる交通路の起点でした。葛城氏は、この重要な水運・交通路を掌握することで、外交や交易においても大きな力を持ちました。

応神天皇は、跡継ぎ候補から外した大鷦鷯尊の正室に、この磐之媛命を迎えさせます。

 

🐳💬
「えっ!?磐之媛命は確かに名門貴族のお嬢様だけれど、古代皇族の正室には同じ皇族が選ばれるのが当時の慣習じゃなかったのかな?…
まさか、大鷦鷯尊に民間出身の正室を持たせることで、菟道稚郎子の皇太子としての地位を盤石にする意図があったの?」

 

🦉💬
「確証はないけれど、結果的に大鷦鷯尊の皇位継承の正統性を相対的に弱めた可能性はあるね。
ただし、この婚姻によって、朝廷では葛城氏が台頭したため、単なる“格下げ”ではなく、豪族との連携強化の意味もあったと考えられるんだ」

 

周囲の思惑はどうであれ、大鷦鷯尊と磐之媛命の夫婦仲は良く、皇室内で複雑な立場の夫を磐之媛命はよく支え、比較的穏やかに過ごしていました。

ところが、あんなに応神天皇から溺愛されていた菟道稚郎子が突如自殺してしまったのです。

豪族同士の権力争い正統な血統の兄を差し置いて立太子された罪悪感に苦しんだためなど理由は定かではありませんが、臣下の説得もあり、失意の応神天皇は大鷦鷯尊を宮中に呼び戻し、皇太子に任命するしかありませんでした。

そして、応神天皇の崩御に伴い、大鷦鷯尊は仁徳天皇として即位。

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『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分) 1886年(明治19年)楊洲周延 画

 

しかし、ここで問題が生じます。
正室であった磐之媛命は、名門とは言え豪族、いわゆる民間出身でした。
記録にこそ残ってはいませんが反発する声が少なくなかったと思われます。
 
しかし、仁徳天皇は周囲の反対に耳を貸さず、糟糠の妻を皇后として冊封しました。
こうして磐之媛命は「予定外の皇后」として歴史の表舞台に立つことになったのです。

🐳💬
「ここで磐之媛命を側室に降格し、皇族から皇后を迎えることも出来たのに仁徳天皇はそれをしなかった。不遇時代の自分を支えてくれた磐之媛命や、外戚である葛城氏のバックアップに仁徳天皇は感謝していたんだね」

🦉💬
「そうだね。仁徳天皇の磐之媛命に対する愛情は紛れもない真実だったと思うよ。それと、仁徳天皇は亡き菟道稚郎子を推していた朝廷の勢力に対抗するため葛城氏を最も頼りにしていたとも考えられるね。彼女の即位後、葛城の南郷遺跡群が急速に発展したことからも、政治的な意味は大きいね」

 

第二章:「皇統を育む母」

👶三人の天皇を産んだ磐之媛命の偉業

磐之媛命は仁徳天皇との間に5人の男子をもうけ、そのうち履中天皇(第17代)反正天皇(第18代)允恭天皇(第19代)が次々と皇位を継承しました。これは日本史上でも稀な「三代連続で天皇を産んだ母」という偉業です。

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*磐之媛命② オリジナルイラスト

彼女の子どもたちはそれぞれ異なる性格と治世を持ち、古墳時代の皇統を安定させる礎となりました。まさに「皇室の母」と呼ぶにふさわしい存在です。

🐳💬
「ところで、仁徳天皇のお母さんである仲姫命は、皇族出身の方だよね。磐之媛命との嫁姑はどうだったの?」

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仲津姫神像(薬師寺蔵)

🦉💬
仲姫命は品陀真若王(ほんだのまわかのおう)という皇族の王女で、景行天皇の曾孫にあたる女性なんだ。彼女の血筋は皇族の中でも由緒正しく、皇后としての正統性が非常に高い。表立って嫁姑争いは記録されていないけれど、民間出身の磐之媛命との間には常に緊張感が漂っていたと思うよ」

 

第三章:「嫉妬と別居」

しかし、即位後の仁徳天皇は皇子時代には磐之媛命に一筋であったにも関わらず、次々と浮気に走りました💕

吉備国の有力地方豪族海部値の娘・黒日売の美しさを耳にした仁徳天皇は、彼女を後宮に迎えますが、磐之媛命は激怒。皇后を恐れた黒日売は正式に入内することなく国に逃げ帰ったという逸話があります。

他にも、日向国から来た美しい髪長媛や異母妹の宇遅之若郎女を寵愛し、歌を交わしたという記述が『古事記』にあります。

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真福寺収蔵の『古事記』(国宝)

🐳💬
「『古事記』には天皇の恋愛事情まで記録としてされているね💦今では当時を知る大切な史料だけれど、自分だったら嫌だな~」

😠八田皇女との確執と筒城宮への移住

そして、決定的な出来事が起こりました。

仁徳天皇は、自身の異母妹で、磐之媛命よりも血統的が圧倒的に格上だった八田皇女を正式に入内させます。

 

 

🐳💬
「当時は兄妹間での恋愛や結婚は許されたの!?」

🦉💬
「古代では、王権の安定や豪族との連携のために、異母兄妹(姉弟)での結婚が行われることも珍しくなかったんだ。
ただし、同母兄妹はタブーだったみたいだよ」

🐳💬
「同じ異母妹の宇遅之若郎女とは恋人同士で済んでいたのが、八田皇女とは正式に結婚しちゃったんだね」

🦉💬
「八田皇女は亡き菟道稚郎子の同母妹であり、『日本書紀』によれば、菟道稚郎子は遺言で、兄に自分の死後に妹を妻にして守って欲しいと頼んでいるんだ。
心優しかった仁徳天皇は弟への想いもあり、八田皇女を迎えることは義理を通すことでもあったんだ」

🐳💬
「なるほど。でも、それならば磐之媛命も理解してくれたんじゃない?」

🦉💬
「それが磐之媛命にとっては単なる嫉妬で済まされないほどの大問題だったんだ。
出自の高貴さは八田皇女には敵わないいつ仁徳天皇の気まぐれで皇后を廃され、八田皇女に替わられるか分からない。
そうなれば、自分が産んだ子ども達はどうなる?

仁徳天皇が異母妹・八田皇女を後宮に迎えたことに激怒した磐之媛命は、筒城宮(現在の京都府京田辺市)へ移り住み、以後天皇と面会することなく生涯を終えました。

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*磐之媛命③ オリジナルイラスト

 

この逸話は『古事記』『日本書紀』に詳しく記されており、「地団太を踏んで嫉妬した」「御綱柏を海に投げ捨てた」など、感情豊かな描写が目立ちます。
ただし、これは後世の律令的価値観による「嫉妬譚」として再構築された可能性もあり、実際には彼女の感情と誇りが強く描かれた物語だったとも考えられています。

🐳💬
「磐之媛命は表面的にはいじけて別居したと記述されているけれど、本当は子供たちの将来を守るために敢えて宮中を去った強い母だったように思えるよ」

🦉💬
「激情型に見えて実は深く考えてのことだったかもしれないね。磐之媛命の行動は葛城氏の誇りと皇后としての地位を守るためだったとも言えるね。事実、八田皇女は磐之媛命崩御後には、後宮の女主人として、応神天皇の正室として皇后になっているんだ」

 

🐳💬
「ええっ!?結局、仁徳天皇は八田皇女を皇后にしちゃったの!?」

 

🦉💬
「磐之媛命は朝廷にとっては『予定外の皇后』だった。だから八田皇女を皇后とすることで、本来あるべき当時の後宮制度に戻したのかもしれない」

 

第四章:「死とその後」

磐之媛命は筒城宮で仁徳天皇と会うことなく崩御しました。
彼女の陵墓は奈良県のヒシアゲ古墳とされ、仁徳天皇陵とは別に造られています。

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磐之媛命陵と治定されている佐紀盾列古墳群に属するヒシアゲ古墳(奈良県奈良市佐紀町)

これは、彼女が皇后として独立した地位を持っていたことを示す重要な証拠です。


また、万葉集には彼女の愛情深い歌が4首残されており、天皇を慕う女性の心情を詠んだ最古の歌人の一人として記録されています。
彼女の歌は、仁徳天皇との別居後、深い愛情と誇り、そして葛藤を表現したものとして知られています。

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元暦校本万葉集

📜磐之媛命の代表的な和歌(万葉集 巻二)

以下の四首は「磐姫皇后の、天皇を思ひて作らす御歌四首」として伝えられています。

① 君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ【万2-85】

あなたが旅立ってから、日が長く経ちました。
山道をたずねて迎えに行こうか、それともこのまま待ち続けようか——。

🪶心情:逡巡と切なさ。待つことの苦しみと、迎えに行きたい衝動の間で揺れる心。

 

② かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを【万2-86】

これほどまでに恋しさに苦しむくらいなら、
高い山の岩を枕にして、いっそ死んでしまえばよかった——。

🪶心情:恋の苦しみが極限に達したときの絶望と、死への願望。

 

③ ありつつも 君をば待たむ うちなびく 我が黒髪に 霜の置くまでに【万2-87】

それでも私は、あなたを待ち続けましょう。
私の黒髪に霜(白髪)が降りるまで——。

🪶心情:誇り高く、静かに待ち続ける決意。老いてもなお変わらぬ愛。

 

④ 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いづへの方に 我が恋やまむ【万2-88】

秋の田の穂に立ちこめる朝霧のように、
私の恋心は、いったいどこへ向かえば晴れるのでしょう——。

🪶心情:恋の行き場のなさと、晴れない心の霧。

 
 
 

🏁まとめ:磐之媛命の真実

磐之媛命は、民間出身ながら皇后となり、皇統を支え、政治的にも文化的にも大きな足跡を残した女性です。嫉妬の逸話ばかりが強調されがちですが、彼女の生涯は誇りと愛情に満ちたものでした。

 

🐳💬
「仁徳天皇は宮中から出ていった妻に会いに、筒城宮を訪れたという話があるね。でも結局、会えずに追い返されたみたいなんだ」

🦉💬
「磐之媛命にとって、面会を許すことは“自分の皇后としての正統性を認めない”ことにつながる可能性があったんだ。だからこそ、毅然と拒んだのだと思うよ。磐之媛命は、履中・反正・允恭という三代の天皇を産んだ「皇統の母」。 もし八田皇女が仁徳天皇の正妃として台頭すれば、磐之媛命の子どもたちの皇位継承が危うくなる

 

🐳💬
「愛しているからこそ、会わない。これは、古代の女性が持ち得た最大の抵抗だったのかもしれないね」

 

🦉🐋「最後まで読んでくださってありがとうございました!」

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