皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪
誰かから自分のことをよ~く判ってもらえたときって、とても嬉しく感じませんか?私は「理解」する&してもらうことはある意味で「愛」の代名詞のようなものかな〜と思っています。なぜなら理解は与えても受けても増し加えても、愛と同じように喜びと安らぎをもたらすものだと感じているからです。ときに人は「好き&愛してる」という言葉よりも「うん知ってる&判ってるよ」の言葉の方が遥かに大きな力を与えることがある、ということを私は経験から覚えました。
ですので、とりわけ理解してもらいたい相手(親とか友人とか長老?)から理解していただけない体験はとても辛い~ことですよね。もちろん理解=賛同ではありませんからそこは別問題です。それでも言い分は判って(一旦受け止めて)もらいたいですよね。心が躓いて問題を抱えてしまった人は、おそらく他の人からちゃんと理解してもらえた経験が少なかったではないかなと推察します。それでとりわけJW2世&EXJWの方々はブログに記すのかなと思ったり。羊の視点で牧者の皆さんを見たときに「この牧者は近づきやすくて優しいな~」と思える兄弟がもし少ないと感じてしまうのだとしたら、それはたとえ会衆が霊的なパラダイスと呼ばれていても、現実問題として全世界を取り巻くサタンの霧は濃いということなのでしょう。
ところで自分が苦しいときに他者からの理解は欲しいところですが、楽しいときでも同じように理解が欲しいです、よね?(^-^)自分の喜び&悲しみを一番奥深くまで全て理解してくださる方が、宇宙の創造者であり私たちの天のお父さまエホバ神です。
天のお父さまは私以上に私のことをよく理解してくださっていますから、欲しいよぅと願っている観察力や洞察力&識別力はもちろんのこと、自立心や新しい家族、あふれるばかりの愛や信仰心もくださることでしょう。といっても正直、私のこの欲求は大きすぎる欲張りな願望なのかもしれません。でも気落ちしていたエリヤの前でたやすく自然界の力を示された本当に強大な力をお持ちのエホバにとっては、もしかしてもしかすると小さくてかわいい?お願いに過ぎないのかもしれません。今はまだ判りませんけれども(^_^)♪
疲れていると、つい忘れがちになってしまいますけれど、私たちはみんなエホバから「理解」の祝福をいただいていますよね♪エホバが理解してくださるので、いろいろ委ねられるようになりたいなぁ~とすごく思います。愛の代名詞の「理解」をもっと大切にしていきたいと思いました(^_-)-☆