新橋、駅直結の怪しいビルに、靴磨き屋がある。僕はずっと、一度でいいから、靴磨きをしたかった。したかったというか、されたかった。
出勤前か、休憩中か。何も考えてない(ようにしている)目のおじさんたちが椅子に深く腰掛け、黙々とただ、ブラシの音が響き渡る。靴を汚した客と、静かに鳴り止まぬ職人の腕。床屋の髪を切る音や、「コカン」という銭湯の風呂桶の音。ノスタルジックで、洗練された、二世代前の化石の音。一度でいいから、身を投じて見たかった。
二畳ほどのスペースに、椅子が3つ。外の丸椅子には、既に1人のおじさんが待機していた。
コースが3つから選べるらしい。「初めての方にオススメ」と書いてあるから、それでいいのだろう。
前のおじさんが呼ばれ、一番簡易的なコースをオーダーしている。
目の端に映るその革靴は、とても年季が入っていて、高級そうだった。
ふと真下、足元を見る。5000円か、1万円か、とりあえず「軽くて黒い」で選んだ、僕のカワグツが、ブサイクな顔で横たわっている。
「何を偉そうに、靴を磨きに来てるのだ。お前のそれは、靴なのか?」
無性に恥ずかしくなってきた。もう帰ろうか?カワグツで。
「先頭の方。」
呼ばれてしまった。唯一の女性の職人さんが、僕のつま先を擦っている。やっぱり、隣の客もかなり高そうな靴を履いている。
指の腹で黒い皿を触り、足の輪郭をなぞっていく。初めて美容院で、シャワー後タオル越しに耳の中を拭かれた瞬間を思い出した。「人から触られたことのない部分」というのは、意外と多いかもしれない。
マスクをしているその女性の、見えるはずのない口が見えてくる。ひらがなで言えば、間違いなく「へ」に違いない。鼻先まで近寄って、こんな靴を磨くのは、生理的に受け付けない人と抱き合うくらい、嫌なことなのかも。
並ぶ3人の靴磨き。
並ぶ4足の革靴。
ガキが乗ってきたカワグツ。
ふと、職人さんたちの足元に目がいく。
とてもお洒落な革靴だった。
そりゃそうだよなぁ。靴が好きだから、靴磨きしてるんだよなぁ。なら一層、僕のカワグツの、その情けないチープさが目に余るだろう。数多の高級革靴を蘇らせる仕事の醍醐味を、僕は奪ってしまっている。
消費者としての自意識は、無けりゃ無いだけ生きやすい。対価・お金に全体重を乗っけて、領収書きって、2度目の暖簾をくぐるだけ。
もし、自分の元に「絶対に売れる気配のない芸人さん」が相談に来たら、僕は彼を突き返すだろうか。答えは「自分に出来ることをしよう」だ。
良い子ちゃんな自分に置き換えて考えれば、靴磨き屋さんがそこまで薄情でないことは分かるのだが、なかなかどうして、これは辞められない。良い靴を買えない自分、安い靴を磨きに来た自分、笑われてる自分。「期待しないでセーフティーロック」の暗証番号を、2012年頃から忘れてしまった。
カワグツ、革グツになりました。オトナの僕は、たかだか1080円で靴を磨いてもらっただけのくせに、頭を抱えてこんな文章を書きながら、赤坂まで40分も歩いている。
徹夜明けだと、こうなってしまうのだ。
二足三文。
「オシャレは足元から」と最初に言った人、上履きにマジックでナイキのマーク描いてたらしいですよ。