そろそろ2016年も終わり。
いつもは晴れやに「新年を迎える」のだが、今年は“2016年という期限”に間に合わず、足切りされてしまうようで。「はい、ここから後の人は2017年には進めません~」と、自分に似た意地悪な声が聞こえます。
年が明け、申年も逃げ恥もSMAPも終わってしまうけれど、まだ僕の「社会人(?)1年目」は終わらない。4月まで。
1年目。
「だけど」
「らしく全力で」
「だからって」
そんなポジティブな言葉が続かない。
振り返ればとにかく、1年目「なので」、1年目「だし」、1年目「にしては」と、経験の無さを言い訳に使うばかりだった。
3年後も平気で使えてしまいそうな言葉の物持ちの良さにゾッとする。ゾッとする。ゾッとしてるか?本当に。安心してはいないか。
こういう甘えを、自分の中で「愛嬌」だと思い込んで、積極的に振りまいてみた8ヶ月間。実は、意外と上手くいった。そりゃそうだ。ペーペーの1年生、先輩に警戒されるよりは可愛がられた方がいい。
でも、上手くいかないこともある。というか、上手くいってはいけないのかもしれない。「青くて可愛い1年生」は、どこまでいっても「青い」。たとえどれだけ時間が経とうとも。ももクロを辞めても、早見あかりは青の人。僕には両手で足りないくらい「死んでも許さない」同級生がいる。イメージとは根深く、剥がれないものだ。早見あかりの例えは、なかなか良いですね。
社会の中の上下関係。「信頼」と「侮り(あなどり)」は、下から見上げた時にシルエットが同じだったりする。要するに「彼に仕事を任せよう」か、「彼に仕事をやらせよう」か、だ。
同業種の方で事務所にも会社にも属していない人は多いし、「先輩がどうのこうの」と小さなコミュニティ内でウジウジ言っている僕はマヌケに見えるかもしれないが、どちらにせよ結局仕事は「人と人との繋がり」なので、直の先輩がいる分、そこを肌で学べるのはむしろ優れた環境なのです、一般論なんですと、言い訳を挟んでおく。また言い訳だ。怖がりすぎ。
「愛嬌」は恥ずかしい。
愛嬌には、自分の恥ずかしい部分を使う。弱みとか、ダサさ。今年、僕は何回「童貞です」と人に笑って話しただろう。
愛嬌で人と打ち解ける。
人と繋がる。
人と人との繋がりは仕事の本質。
単純なイコールで結んでいけば、方程式は間違っていないのだが、数学と違って答えが一つじゃない。必要だけど、不十分。あとは何が要る。
「信頼」が必要です。
「信頼」が要る。
そこは「愛嬌」だけでは辿り着けない場所。とはいえ、我輩はまだ1年生である。「実績」はまだない。
「信頼」を手に入れるために、いま使える武器は無いのか。「愛嬌」ではない、「実績」でもない、何か。
「色気」じゃないかと。そんな気がしている。
迎合するための「愛嬌」でなく、引き込む「色気」。興味を“持たせる”こと。他発的な評価。自称の出来ない「色気」という武器ほど、あざとく、ズルいものはない。
仕事に関係なく、子供の頃からいつも周りには「色気」のある人がいた。
「なんでいつも僕だけは『あの人に近付きたい』と“思う側”なんだよ」
何故なんだ、と、いつだって、今でも思います。泣きそうになる。
いつだって、惹かれるだけ。灯りにつられる虫のように、ただいつも“明るいアイツ”を追いかける。フロア後方で、数多の後頭部の隙間からステージを覗くように、祈るように「色気」に群がる。同じクラスの彼、同じゼミの彼女、僕に見向きもしない輝くロックスターに目を焼かれながら、必死で手を振り声をかける。
僕はどうする。今からどうする。手は振らせなくていい。せめて、目線を集めよう。「色気」が必要なのだと思う。とにかく。どうにかして。何とかして。
残念ながら「色気が欲しい」「色気が欲しい」と求める今の僕には、「母の裸体か」と怒鳴ってあげたくなるほど、色気が無いのだけど。不用意に歯磨きしに行くから、ノックもせずに浴室のドアを開けるからこうなるのだ。
とりあえず、何か“秘密”を持つことから始めてみようかと思う。贅沢なこと言うけれど。「愛される自分」と「底知れない自分」でいたいなぁ。秘密も何も、思いの丈110%を今ここに垂れ流しておいて、説得力はありませんが。