お馴染みの人から新たに知り合う人まで、リスナーの方々とたくさん話す。
アルピーさんには新お笑いラジオの時間にサインを書いてもらい、少し喋る。
ラブレターズさん。手を握り、1回しか読まれたことないのにラジオネームを自分から言っちゃったりもして、「お疲れ様でした」と声をかける。
赤い朝焼けの中、ニッポン放送前で知り合ったばかりのリスナーの人とラジオの話をしながら帰りました。
最終回っていうのは、本当に楽しい。まぁもちろん、もちろん番組は終わらないにこしたことないのだけれど。ただ、テレビもラジオも、いつか番組は終わります。
ラジオ番組の終了は「クラスメートの海外への引越し」みたいな感じ。
死ぬわけじゃないんです。海外で元気にやってる。テレビやライブで変わらず活躍するんです。でも今まで通り、当たり前のように教室で会うことはない。
ラジオがテレビドラマ・テレビバラエティーと違うのは、毎週毎週ちゃんとリアルタイムを共有したおかげで、というか共有したせいで、共有し過ぎたからこそ、寂しさが大きいということ。まさに距離の近さ。メールを読まれたことがある人は尚更、そうでなくても深夜1時とか3時とかに起きて声を聴くなんて行為を続けていれば、のめり込んでしまう。
テレビを観ている時の自分は単なる「番組を享受する、数え切れない視聴者の内の一人」であるが、それに対してラジオでは、その何倍もリスナーとしての自分の存在を意識してしまう。させてもらえる。だから番組の歴史が、リスナーである自分の歴史にもなってしまっている!そりゃあ、唐突な一区切りには動揺しちゃいますよね。6年間過ごした小学校を卒業するのは悲しい。それと全く同じで、ラジオと一緒に僕たちはたくさんの月日を“過ごして”きたから。
ただやっぱり「最終回」というのは、めちゃくちゃ楽しい。面白い。放送してきた期間全ての思い出ががフリになって効いてくる。ご褒美のような、寂しさと面白さの絶妙ハイブリッド。
「寂しさ」っていうのは、すべてのエンタメに必要不可欠な要素なのかもしれない。と、映画『幕が上がる』を観た時も思いました。「こんな輝かしい高校生活、僕は送ってこれなかったなぁ」という虚脱感、二度とあの頃には戻れないという寂しさが、ストーリーの魅力・刹那の美しさをこれでもかと底上げしている。
スイカにかける塩だ。
少しの寂しさで、あり得ないほど感動が膨れ上がる。泣きながら笑う幸福感。ラーメンズのコントでも思ったな。ATOMとか。寂しさって最高の調味料。
「終わるな終わるな終わるな終わるな」と怖い顔で叫び続けるのも悲しい。だから番組の終了がどうとか考えず、せめて最終回で泣きながら笑えるように、どんどんどんどん思い出積み重ねて、最後へのフリを作っていきたい。終了の悲しみをはるかに上回る楽しい楽しい最終回に向けて、今日もラジオを聴きます。
