殺意というもの。人に対して危うく、そして人と人だけではなくて、人から、生物や生物だけではない何者かへと伝播しやすい観念でもある。意識だから、伝播することが前提になる。前提のその前の前提は、無意識ではなくて別の意識になる。例えば、殺意ではなくもっと漠然とした意識に、とすると恐れの感覚であるとか、そういうもの。

「殺意」に関しては、実は動物本来の姿であると言ってしまっていいだろうか、もしかするとそうなんだろうか。

人間で考えてみれば、ホラー映画愛好家とか?なぜ、何かを考えたい人には、ホラー映画は魅力なのか。

 

『囚人街道樺戸編』の稽古中に、当初イナズマ役だった岡田さんが、客席側に背中を向けてかがんでいる体勢から、振り向きざまに通行人をバサッと斬りつけるシーンがうまくいかなくて、なん度も稽古し直すことがあった。通行人役である私は、「ギャー」と叫んで去る。そのうちに滝沢さんが、舞台上で、岡田さんにドスの構え方の見本を示して、振り向いた時にはああだこうだと説明しながら、かがんで、私は上手(かみて)にスタンバイして、下手(しもて)へと歩いていく、滝沢さんは、説明しながら演技をし始めたのだった。

振り返り斬りつける動作を私は見なかった。殺意が、私が「ギャー」と叫んで逃げ去るタイミングと同期した。殺意が伝播した。

妖気ではない殺気は、ユラユラ立ち上る感じではなかった。私は見てなかった。タイミングと見分けがつかない「殺気」が生じると、瞬く間に消失した。

私が殺気を感じるとは、死ぬまでの間にも、それっきりだろうと思う。

客席側で見ていた人にはどう映ったのかはわからない。ビリッと感じる何かはあったかもしれないが、そのあとも、滝沢さんは説明しながら、客席に戻り、そして稽古は続いた。

 

人間が人間に備わる特殊事情で悩ませられるのは、「殺意」についてのことで、殺意にまつわるそれらこそが、生き物の一面ではあるものの、動物本来の魂の姿だと断言してみよう。と仮に、(あくまでも慎重に扱うことになる。)魂の姿が殺意であり、本来の姿で本質だとするなら、わいてくる物騒な感情も、意識の底にある企みも、おまけに「殺意」は鋭利であるだけに煽動性があるものを、魂の一面に設えたならば、やはり物事はおおごとだ。

文化と科学、どんな分野であっても統一的な教義なんて不可能だ。つまり宗教は、宇宙の果てまで統べることのできる、統一教義を持とうとするけれど、魂の一面が殺意であるとするなら、統一教義は不可能だ。

そういえば、物理学分野で、統一理論を探せ!というのが、流行ったことがあったんだ。

 

それでも、宗教の野心は、統一理論ではないかと思う。

 

「愛」を持って、「愛それだけがすべて」としてしまうと、いつしか収束される観が芽生えてきてしまう。信条の永続する命は、はばまれる。人間は複雑だから、という理由で

「愛」が対極を持たなければならないとして、対極を持つということは、意識されるということと言い換えてみる。

「愛」の対極が「悪」だとして、抽象的にいうなら、今のところそれで、

行ったり来たり、愛は逡巡しなければならない。

逡巡すべきだと思う。

 

なぜ抽象が必要かというと、暗号を読み解く暗号だからだ。

概念は、抽象を開けるパスワード。

(ここで、何かが没になる。没になる何かがあるということは、浮上する何かがあるということだ。)

 

 

ミズエ  「きっとそうなんです。そうということはこうなんです。殺したいと思うほど

      好きな人がいれば、殺されたいと思うほど、好きな人もいるものなのです」

                         (『ナビの爪』より引用)

 

そうやって進んできたなら、歴史も経済も制度も「愛」に向かっているとしたら、たとえエントロピーというのは、行末の先々が、いずれ破壊する方向なんだと原理がそうなっていても諦めがつくはずだ。

殺意って、物騒だ。(「殺」という字を●にしたいけど、「●には同じ一文字が入ります、さてなんでしょう?」みたいな、クイズみたいなことになるのでしないだけ。)

 

心理学、社会的な分析、集団に対してのインフルエンサーと呼ばれる、そういう人がいるらしい。インフルエンサーの存在を、誰かひとりが意識すると、じわじわとその人から意識が伝播して、人々は行動に駆り立てられる。もうひとつ、とりあえず並べておきたいことのひとつ、承認欲求とは、現在のところ何のことか?このことをまずは把握しておいて、進めたい。承認欲求という、ありそうでなさそうなその野放し感は、昔は、自分を承認してくれることになる、当のそのひとこそ、超越した存在である神であった。承認欲求とは、背後の意識ではなくて、前方で手を広げて待ってくれている人だった。仏教でいえばご先祖の霊が天上から見守ってくれていた。ところが、時代が下って、今では現世の何かに置き換えての、誰であるとか何であるとかいうことの方が多いので、今のところは心理学用語になっている。

こうして、概念やインフルエンサーや、それら環境が現に自分に影響を及ぼす。演劇的であるにしろ、哲学的であるにしろ、現世的、ふつうに、対話の起きる環境をしつらえる。

そういえば、劇場型政治といわれたのは、小泉純一郎だった。ひとりのカリスマの方法が、そのまま構造になってしまう。

構造とは、それも、またしつらえではある。

 

こうやって、対話の場である空間をしつらえる。

そして、対話についてを常に考える。

対話をしながら「対話」について、「対話とはなんなのか?」と考える。

そして、その間たびたび、対話の場について、しつらえに目をやる。

そして、「対話」って何なのかと、「何」について目をむける。

で、またそこの環境に目を向ける。

で、と繰り返す。

 

この方法だと、最初に存在感があったのは「場」かな?と思われるが、最初に「対話」がある場合もある。

「対話」って何?と問うときに、突然、ぽっと言葉がともる場合もある。

『ネバー・エンディング・ストーリー』では、ラスト近く、あやうく真っ暗の虚無の世界に、バスティアン少年と麗しの君の対話によって、ポッと、光が灯ったのだった。

 

どうであってはいけない、という禁止ルールがある場合もあるだろうけれど、場合が演劇的ならば、もしかすると暴力も対話のツールとなるのかもしれない。

「会話と対話はちがうものだ」というのはよく耳にするルールだ。

会話をしていて、これは「対話」とはまた別の話なんだなと直感されることはある。

 

対話というのは、たとえば芝居の台本を見てみると、それは対話でできている。

「対話とは何か」と考えるのなら、台本がそうなら、そして、喋る役者のセリフも対話だ。

対話とは、すなわち演劇である。として論を進める。

対話するのが二人で、1対1であってもふたりの背後には、それぞれ10人以上が耳目をそばだてている。

それが「対話」だ。

10人というのは、平均的に指の数は両手合わせて10本だからだ。

背後だけでなく前方に10人いてもいいかもしれない。

対話というのは、そこそこの緊張感があるわけだ。

 

「対話」について、そこにはまず、こんなことがあるのだろうか?と疑ってみることもできる性質がある。どういうことかというとそれは、実際に、右耳から一人の他人が何かを言って、左の耳から別の他人が何かを言って応えるという、他人が二人、三人、そうでないなら数十人、作家であるたった一人の人間から、幻聴じゃあるまいし、直に人格が複数も有るかのように対話が編み出されるということが、起こる。そんなことがなぜ起き得るのだろうか。ひとりの人間が脚本を書いているのだとすると、そうすると、脚本家が創作した、産物である「対話」とは、いったいどういう嘘なのだろう?と考えずにはおれなくなるだろう。それとともに、役者が、一人二役で、二人の人物を演じるという事とは、いったいどういう嘘なのだろう?

なんなの?みんな!?どうかしちゃったの!?

と、驚くべきことが、起きている。それを、演劇的には、「役者は複眼だ」という。

座長は、稽古中に常々そう言っていた。

 

そこで、私は、演劇論を続けたいのではなくて、たまたま出会った役者が、例外的な人々というわけではなく、やはり役者然としていたので、切り口が、こうなる。

役者然としているということは、どういうことかというと、演劇的にたくらむ、背徳的ともいえるし、俗世間からは足を洗って観客を前にする、というよりも観客を360°背後にする。

横道にそれるけれど、日本が多様性に疎いのは、演劇的ということに、忌避感情があるからだ。「わざとらしい」とか「カッコつけてる」と言う、その揶揄は忌避感情だ。平均的であるということ、日本人は平均的を好むのだ。日常的に、自然であるということと平均的であることを押し並べて、相対的に、演劇性のある身振りそぶりをそぎ落とすことを同列として語られる、存在感までそぎ落とす、気配を消し去る。

(ここのところが『ねじれ』の登場人物が、皆が一様にたくらんだことだった。)

自然であるということと演劇的であることが別次元のものではなく、対比において観念されるのだとしたら、日常の中では、わざとらしさとして、否定感情を伴い意識にのぼる表象行動をとらえて、演劇的という、そこがまた評価経済の下に位置される、評価をこうむる。消費目的とされてしまう。

 

怪物がなぜ演劇の下で生まれるのか?だった。

 

タツミ  「「ゴミ!」イヒヒヒ、ゴミだってよ。ゴミが、ゴミって怒鳴るのかい?

      まっ、ゴミゴミしているとこ居たら、誰がゴミだかさっぱりわからねえ 

      から、怒っても仕方ねえ。アハハハハ。俺、タツミだからね。(タバコ

      を口にくわえる、マッチを探す、無い。火をつけないまま、吸う)

      うまい。ひとくち吸って、吸って、パッパッ。(大きな爪を拾う)

      鱗?(透かしたり、擦ったり、背中を見ようとしたり等々)アヘ?」

lattenarefesfu「その、ゴミがゴミって怒鳴るのかい、ってセリフ、一番好きなセリフ

      ですよ。鬱屈した気持ちにぴったりくる。それはそうとして、怪物の 

      前身であるタツミ少年と、対話をしたかったんです。架空になりますが」

タツミ  「こうして、僕は毎日バットを振っています。もちろん、近くを歩いている

      人にこのベンチが我が家だと思われたくないから、朝までバットを振る

      んです。振っていると、向こうの裏道からボールが飛んで来るんだ。

      白球ではなく、黒ずんでいてやや茶色っぽい。芯は限りなく透明に近い

      闇。分かるでしょ?眼です。眼が、江川や槙原の速球よりも5倍も

      10倍も速い速度で飛んで来るんです。ほら来た。( 振り切ってコケる)

      振り遅れたか。また来るぞ。気を鎮めてじいっと見てると・・・・。

      ねえ、王選手がいたでしょ、野球選手で。家で素振りをする時、真剣

      を使うんですって。ですから、バッターボックスに立った時はリンゴを

      真っ二つに切るつもりでいたんだ。王は心の中でいつも言っていた、

      切れるんだ、切れるんだ」

lattenarefesfu「その、非常に他人の視線に過敏になっている精神状態。心理というより、

      精神状態ですよね、たいへんなことになってます」

タツミ  「ええ、姉さんが僕を騙していないなら」                                                         lattenarefesfu「そうなんですよ、3ヶ月前に初めて顔を会わせた姉と弟、ミズエさんは

      帰国子女なんです。ってことになって、それで初顔合わせになったんです

      よね。裏があるのですが、それは割愛したとして。もしも、ミズエ姉さん

      に恋心なんて芽生えてしまったら、それは、近親相姦ということになる

      から禁忌のルールが働きますよね。まだ、高校生だから、不安定な年頃

      だのにこんなことになっちゃって」

タツミ  「夏だというのに、姉さん」

lattenarefesfu「姉さん、姉さんって言ってるんだ、タツミ君は、やっぱり。お母さんの

      ミチコさんは、タツミ君のことを「私のピーターパン!」と呼んで、

      しまいに包丁持ってピーターパンの格好して出てきたでしょう。もう

      自他の区別を失って嫉妬に狂っていたんですよ。皆、異常だったんです。

      ミズエさんが「タツミはタツミそっくりだ、驚いちゃった」って、謎め

      かして言ってたけど、鬱々としていたタツミ少年の欲望を、この世界に

      引き出そうとしたんですね。というと、精神科医やカウンセラーみたく、

      善意の人のように思うかもしれないけど、ミズエさんは「悪」ですよね」

タツミ  「僕は、この家から、いちばん出たがっているんだよ。姉さんだからこそ、

      ・・・・・・」

lattenarefesfu「わかる、わかる。家って、制度だからね。昔々、ご先祖の代から家族だ

      った人々が、未来永劫、家族であるというわけにはいかないからね。

      自分自身が、アフリカに由来するたったひとつの遺伝子が祖先だ、

      なんて信じられないでしょう?アジアで別地域のたったひとつの遺伝子

      が祖先だという可能性もあるらしいけど?だからといって、この先未来に

      制度の解体に居合わせたからって、親兄弟に辛くあたるわけにいかない

      でしょ。制度って、どうなるかわからないんだから」

タツミ  「モニカ先生ですね、姉さんが。・・・ハーモニカのリードがゆっくり震え

      る音を聞くと・・・予感がします。ハーモニカのミのリードが壊れて鳴ら

      ない。実は、その詰まったリードが僕なんです。どこも通過できない僕。

      そうだ・・・・そうじゃない、そうだ・・・いや、そうじゃない」

lattenarefesfu「そうなんだよね、「ふるさと」のハーモニカの音を聞いていたんだよね。

      ずっと、外にいたんだよね。川のせせらぎとハーモニカの音の聞き分け

      ができなくなるくらいに」

タツミ  「あなたは誰です?」

lattenarefesfu「時の過ぎゆくままに」タツミ君がいよいよになって、そうミズエさん

      に問い詰めた時、ミズエさんは言ったんだよね。時の過ぎゆくままにって。

      ミズエさんは死んでないんだよ」

タツミ  「姉さんではない、姉さん」

lattnarefesfu「そうなんです。私は、ミズエさんが誰かを知っています。ここでは

      言いませんけど。『ナビの爪』は、禁忌への欲望を圧にして、芸術を試み

      た作品だと思ってますよ。どう考えるかってことですよ。この場合、

      「悪」と「愛」は、近親相姦であり、近親憎悪だと思います。どっちが

      どっちだなんて、壊れてますよ。どっちにしても、ストーリー上も作品

      的にも、たくらみの下ですよ。これほどの切迫感はないというモチーフ

      において、選ばれたテーマだったんだな、と思ってます」

タツミ  「もし、そうだとしたら、僕は・・・、ふるさとの爪を剥ぎ、ナビの道を

      歩き出します」

lattenarefesfu「そういうこと。それを言わせたかったんでしょう。まあー、おぞましい

      イメージでもありますね。両義性ですね。実際の猟奇的な事件をヒント

      にしてますが、最終的には真偽が不明瞭に、事件は終息しました。

      芸術家集団ナビ派の名を拝借したのだし、両義性は芸術の要ですよ。

      ナビ派が短命だっただけに、疾走感みたいなイメージもあったでしょうか。

      今は「ナビ」と聞くと、ナビゲーションのナビを思い浮かべますよね」

タツミ  「どうして、僕に言わないんです?」

lattenarefesfu「え!?・・・タツミ君に話してるつもりしてるんだけど?(汗)・・・

      それにしても、芝居の中で言うそのセリフは、タツミ少年の正義だよね」

 

 (つづく)