《あらすじ》

 

※二つの事象

 

昭和54年9月9日、伏古の玉ねぎ畑で女が殺された。

死因はピストルズドン、即死だ。

刑事二人が捜査に乗り出していた。

もうひとつの出来事も進行していた。100年の時を越えて、クラークが帰ってくる。

と、巷で噂しあっていた。

 

北大クラーク会館を正面に見るロータリー、歩道東側一隅に胸像が建てられている。

あのクラーク博士が、(昭和51年には羊ヶ丘展望台にも銅像が建てられた)帰って来る。

と、もうひとつの「口裂け女」の伝説のように噂が世間に広まっていた。

 

ウィリアム・スミス・クラークという人物は、南北戦争の北軍従軍経験を持ち、かつてはその勲功も讃えられたバリバリの軍人気質。自分でも軍隊勤務が向いていると自負していた。それにまた、化学者であり教育者でもあった。

明治時代、日本政府の要請を受けて、1876年札幌農学校(現 北海道大学)の教頭に赴任し、創設校の初代教頭の肩書きでありながら、実質的な役割を、学校長の権限を持ってして仕切ったのだった。

北海道で教えていた期間は僅か8ヶ月間ほどのことである。赴任契約1年間の後、きっちりとアメリカに帰って行ってしまった。

偉業というものは滞在期間や着任期間とは関係がないけれど、北海道に残したクラークの足跡は、「偉大さ」を持って語り継がれる。伝説と事実との見分けがつかないエピソードもあることはあるが、それにしてもクラーク博士にまつわるイメージは、誉れ高くカリスマ性を持ってして定着している。

官立の新設校の学校長が、外国人であったと言うことだけでも、驚きだ。

羊ヶ丘展望台にクラーク像が建てられた1976年、北大は創立100周年祝賀の年であった。その年は、クラーク博士の功績などもあらためて人口に膾炙されたことだろう。

 

それから三年が過ぎた1979年、昭和54年。

確かに、事件の翌日の9月10日、豊平川で26年ぶりに鮭が確認されてニュースになっている。このように、符号のように、人々の心をざわつかせる磁石のひとつは、コンクリートを破って芽を出すタンポポの様にも随所に、意外に人知れず現れるものだ。

 

※洗濯女

 

三人の女達「洗濯女」が、秋風の匂い、鰯雲のかかる青い空、ひんやり湿った空気をまとって颯爽と、札幌のどこかの町内へとやって来たのだった。

割烹着を着て、エプロンをして、洗濯物を入れたタライ、大型バケツなどを持ってきて。暗渠の水路を道案内に、本能で湧水まで辿ってみせる一種の動物のように、そして華やかに歌ってやって来る。

「洗濯女」は、伊藤博文(1963年〜1986年のあいだ千円札の肖像画の主)の妻、岩倉具視(1951年〜1985年のあいだ五百円札の肖像画の主)の妻、もうひとりは新島襄の妻である、三人の妻たち。新島襄は、かつて留学先アマースト大学で直にクラークから化学を学び、その縁でクラーク博士を日本に紹介することになる。(新島襄は、札幌農学校が設立されるその前年に同志社英学校、のちの同志社大学を設立。)

まるでこれから、女亡霊が、明治の亡霊話をするかのようだ。しかし、1979年当時の市井の人々を想像してみれば、高度経済成長時代の延長(第二次石油ショックを乗り越え、もはや倍とはならないが賃金上昇は続いていた…)の只中である。手にするお札は経済成長と共に、その手に十分長いこと馴染んだものであった。紙幣のアイコンは広く国民と共に息づいていたはずなのだ。つまり、時代間のギャップを感じさせなかったはずだ。

1979年当時にしてみれば、日清戦争の年である1894年生まれだったとしても、まだ85歳。激動の人生。明治元年なんて目と鼻の先だ。

洗濯女達の、特異ないで立ちを人々が目にしたとしても、明治の亡霊などとは、その目には映らなかっただろう。

 

※カムバック・クラークは明治の精神か?

 

昭和の、戦後にあってさえも、戦後を飛び越えての明治人の気質を、

明治時代の時代精神というのが、望まれたことがあったのだろうか。

カムバックサーモンと同様にして、リバイバルが、もしやサバイバーが望まれたのだろうか?

そうじゃなくて、一般市民にとっては、まだまだ未知なる到来の再来なのだとしたら、外圧なのだろうか、イノベーションが望まれていたのか。

40年前の私たちは、そうだったのだろうか?

(もしや2020年の今も、そうなのか。)

クラークは、権力の一方の側から仕組まれた外圧だったのだろう・・・か?

外圧再来が望まれていたとしたならば。(今も、望まれているとしたならば。)

 

『クラーク物語』でラストシーン、クラークが最後に残した言葉は、1979年当時も、

2020年の今でも、真実味の余韻が残る。

ひょっとして、クラークの去り際の真実は、こんな後ろ姿だったのではなかったかと。

 

明治というのは、1868年元年から1912年の45年間である。だいたい、なぜに明治時代の政府の重鎮がお札のビジュアルだったのだろう。今も。明治よりももっと以前に遡るわけにはいかなかったのだろうか。

画像がないから、と言う説も聞いたことがある。世界に知らせたい偉人が割と少ない。それよりも、偉人ではあっても、各都道府県出身の相撲取りの方が一般庶民にしてみればよっぽど有名人だ。

反骨精神の志だったならば、明治も明治以前も、闇から闇へと葬られて行ったのだろう。正真正銘の偉人とは、そういうものだったのかもしれない。

クラークの志も、実はもしや?と考えてみる。

もしや、そうやって葬り去られたのだとしたら?想像するしかない。

 

刑事二人は言う。

紅林「文明の縮図に生きてるんだ、懐疑精神を持つな。マスコミがついている、世論

   が味方になってくれるぞ。徳川時代も大岡越前がいたから三百年も平穏に過ぎ

   たのだぞ。闇から闇へ葬られて行くのは大事なことよ。」

山本「昭和は?」

紅林「昭和もまた三百年! 癒着の社会を守るのだぞ。」

 

 

※札幌市

 

「洗濯女」といえば、ゴッホやドガなどのヨーロッパ産絵画を思い浮かべる人は多いのではないかと思われる。

有名どころでは、ゴッホの「洗濯女のいるアルルのラングロワ橋」ではないだろうか。ゴッホ1888年の作品で、ヨーロッパ絵画世界では、「洗濯女」は労働者としてのモチーフとしてポピュラーであったようだ。

時が1889年、ドライクリーニングの店もまた明治に現れている。江戸時代の「洗濯女」というのは、既に職業でもあったと、その姿が浮世絵に描かれているということだ。

北海道の札幌の場合は、豊平川に出かけるとか、琴似川、新川、伏古川など、野生の自然が存分に生きている川辺に行って洗濯もあり得ただろう。

ゴッホのラングロワ橋の袂は、遠目からは優雅に見える。

北海道の野生の自然は、猛獣もいるので優雅とはならなかったかもしれない。

 

札幌市という所は、元々が、蛇行し氾濫する豊平川の扇状地とした地形であるために、明治期には、たびたびの氾濫に見舞われる毎に、治水工事が要所要所で進められていた。抜本的対策としての洪水や濁水に対する治水工事を端緒に、明治期には、人工河川として新川の掘削事業、昭和には、豊平川氾濫の解決策としてのショートカット、石狩川への通水などが行われて来た。

札幌市は、実に河川が多いと思う。

 

人工河川として、地元では有名な創成川、元の名「大友堀」は、江戸時代に箱館奉行石狩役所の役人の大友亀太郎が用水路として開削したのである。その後に、物資を運ぶ船を航行するため延長したのが「吉田堀」、「寺尾堀」が琴似川に付けられたり、などなど私有用水路だとすると、その他、名付けられていない堀も数知れずあったのではないかと想像させられる。

そして各所、適宜に水門を設けたりなど、1880年、札幌に鉄道が通るまでには、幾筋もが水運として活用されていた。

人工河川の川べりに土手がある。明治期にはもしかすると土手の一隅に洗濯場も設けられていただろうか。

私達、水鳥みたいに根っからの河川と河川敷への愛着がある。

 

洗濯女三人は洗濯をしながら喧しい。

「かのプリンスを知らぬ筈ございませんわ。」

「クラークその人!」

「再びこの地に戻って来られるのです。」

「再びこの大地と闘うのですね、卓越せる指揮官クラーク!

と、喧しく噂に興じていたのだった。

そこへ、刑事二人があっちの塀、こっちの電信柱に、顔写真入り手配書を貼りながら、やって来た。

紅林と山本。上司の紅林には、隠しても隠しきれない、いつか暴露される秘密があった。それは、警察社会、国家権力優先社会が、その塀の中に放つ凶暴な、それが「善悪の彼岸」野獣としての一面なのであった。

山本はそんな紅林におべっかを使いながら行動を共にしていた。

 

「この人だ!」手配写真を見たひとりの洗濯女が指をさして、言う。

「君達、こいつを知っているのか?」

紅林は山本に尋ねるのだった。「クラーク知ってるか?」

山本は言う。「付き合いありません。」

場所はそのままその時間。山本刑事とケンカ腰三人の洗濯女が、一触即発の諍いをまみえる。

洗濯女達が立ち去り刑事達は物陰に隠れる。

 

※パチンコボナパルト

 

チンドン屋の出立ちで三人連れがやって来た。

小気味よく鐘と太鼓を鳴らしながら店長は声を張り上げる「さあ、いらはい、いらはい、パチンコボナパルト本日開店!」

看板に足を躓かせながらよろよろ歩く中年男。

ガムをクチャクチャと言わせ噛みながらついて来る女。

三人は、専門のチンドン屋を雇わずに、自分たちで、開店したての「パチンコボナパルト」を、看板持ってチンドンを鳴らして宣伝して、町内を回っていたのだった。少年は21歳にして、パチンコ屋「パチンコボナパルト」を一軒立ち上げた、野心家でもあり自称成り上がりの倉田一男。

中年男は、戦後入植で、内地からやって来ての百姓あがりの苦労人らしいのだが、その後何をして食いつないでいたのかは誰にも知られていない。店長の倉田からは、何度も小突かれ、浮浪者呼ばわりされる。

そして、もう一人、倉田に雇われたのは、くれないと言う名の女。くれないの実家は、「ミミちゃんガム有限会社」を経営していたのだが、どうやら経営破綻したらしい。仕事中、倉田の顰蹙を買いながらもガムをかじり、失踪した姉、あかつき姉さんを探している事を打ち明けるのだった。

そして、それはライバル会社「ラッテ」に負けたからだと言う。

そして、なんと「ラッテ歌のアルバム」は、スターを夢見た姉さんが、オリジナル曲「影のない歩道」をひっさげて、出演を希っていたTV番組なのだと!!

くれないは、ガラス製のレコード一枚一枚を爪で溝を掘ってプレスする。

狂気のようだが不可能ではない。

姉さんのために、リクエストカードを毎日書いて出して。

そうやって、「ラッテ歌のアルバム」から出演のオファーが来るのを待っている、行方不明のあかつき姉さんが、そうしたら現れてくれると願って。

「閉じ込められた女はガラスのお部屋にひっそり住んでいます。姉さん閉じ籠もりがちね。出ておいでと言っても、隅の方に蹲って歌うの・・・。」

広田三枝子の「人形の家」を思い出させられる。

 

倉田一男は、ポケットの中に本物そっくりのピストルを隠し持っている。

一男「俺を守ってるのさ、こいつ。」

くれない「本物なの?」

一男「どうかな。」

中年男「オモチャだろ。」

一男「どうかな。」

くれない「捨てなさい。ピストルは身を守るものじゃない、攻撃に有るんだ。」

くれないは、一男を好いている。一男は、伝説のクラークに心酔している。中年男は、くれないを盲目的に好いている。

 

一男「いつもどうして気張るのだろう、気張らないと、三度の飯も喉を通らない毎日

   が続くと、胸にポッカリ穴が開く。夏は熱風、冬は冬で木枯らし吹き込む

   ほら穴、スッカラカンの空洞は寂しさと怯えを誘い込む。いたたまれねえぜ。

   ( 仕舞い込んだピストルを触って )そんな小さな住処にも誰かが俺に襲い

   かかって来る。」

くれない「変な妄想よしな。いっぱしの店長が主もわからん相手に怯えたりする

     なんてだらしねえぞ。」

一男「だらしなくたって怯えちゃう。だからよ、(チンドン鳴らして)こいつで

   厄除け。」

中年男「これでお祓いやってるの。」

パチンコボナパルトの三人は、再び、宣伝をしに町を回って行くのであった。

 

物陰に隠れていた刑事二人は一部始終を見逃さなかった。

山本は紅林を忖度してやまない。

「キャンペーンを!あとは犯人を捕まえるだけですね。」

紅林は確信する。

「あいつだ!」

 

場所は四畳半。数日が過ぎて、倉田一男は容疑者になっていた。

新聞にも「犯人は札幌市に潜伏の模様」と、犯人探しの一大キャンペーンが張られてしまい、倉田は、狭い四畳半から一歩も出られない様になっていた。

 

(つづく)