「少年と少女」というのをひとつ象徴と捉えてみると、そのイメージと象徴する先には、不純なものが挟まれる余地などないってことだろう。心性が薄汚いってことも却下されるだろう。身なりは乞食だが心は天使というアンデルセン童話に描かれるイメージを持つのは、こちらはポピュラーなものだろう。純粋というと、メーカー直の純正の消耗品だとか純血種みたいな、動植物の血統みたいな、そんなのが含まれるので、純粋な子供達とするよりも不純ではない子供達としてみるほうがわかりやすい。「けっして不純ではない子供たち」

(言い換えただけだと、代わり映えはしないが)

しかし、「不純」と言うと学則の禁止事項がそのまま、オールジャンルで列挙されそうでもある。学校というのは、「少年と少女」のイメージと象徴する先からは避けておきたいと思う。

おエンもケンも不純ではない、心に曇りがない登場人物である。おエンはつまり少年少女であり、ケンもまた少年少女である。というぐあいに、座付き作家のオリジナル作品には必ず、少年少女が登場する。

心に曇りがない、その世界観は真実に対して謙虚であり、内省する心が揺れ動いている。悪に飲み込まれようとしている時も善に向かって輝く時も主役であることを忘れない。主役を張って登場する人のことを「少年少女」と言う。

 

そうするとヒップホップもまた少年少女である。

 

登場人物を大きく分けると、「少年少女」と「老若男女」とに分けられる。「老若男女」は年齢不詳である。「少年少女」はやはり子供であって、なおかつ背伸びした子供でなければならない。そうでなければ、いつか成長の暁には子供じみた年寄りか、はたまた子供のふりをした老若男女になってしまうのではないか。

子供じみているというのと、少年少女というのとはまた違う。

大人になって、他人から幼稚に見られるのは辛いものだ。日本人は往々にして外国人から幼稚にみられるらしい。

「幼稚だ」というのは、他人からの評価だから気にしなくても良いということにしよう。

 

おエンとケンは、少女と少年であって少年と少女でもあるので、そんな表記上の順序は気にしないでおきたい。おエンは少年であり少女でもある。ケンもまた少年であり少女である。

二人が出会うと、なぜか恐れ知らずな空気が流れる。

そういうものなんだと思う。

( 観客は、この先が流血沙汰の復讐劇だということを知って予感する。予感の中にいる。

しかし、二人は知らない。)

少年と少女の内心は多感であるわけだし、子供とは、本来が、未知なる全てには期待と同時に恐れをもっているものだ。怖がりなのであるが、二人が出会うと、ホラー映画であっても、現実がホラーであっても、どんな戦争映画であろうと、現実が戦争であってさえも、恐れのない世界が現れる。垣間見せてくれるものだ。

 

舞台は、後半。

ケンとおエンは三度目の出会いのシーン。

ヤクザ宮沢と小吉がおエンに執拗に絡んでいるうちに、小吉が度を失い、ひとりさっさと去って行ってしまったのでヤクザ宮沢も仕方なく退散するといったかっこうになる。

そして、ケンがやって来る。今度は様子が違う。

 

ケン 「ヤクザにカンザシ頼まれちゃってさ。やっぱり断ろうか、それとも男なら

    ・・・・だが、無くしてしまった。もう引けねえ。もう一歩も戻れねえ。」

おエン 「いいじゃないの、たかがカンザシ一本。」

ケン 「おエンちゃんにはたかがカンザシ一本かもしれないが・・・・・」

おエン 「だまれ!」

ケン 「どうして怒るんだい?」

おエン 「怒ったりしてませんよ、シティボーイさん。」

ケン 「ビルが群れている都市、街なんだなあ。ここいらで万引きしたってちょっと

    やそっとじゃ捕まらんよね。上ノ国じゃ浜じゅうがお隣さんで、知ってる顔

    顔々、息が詰まりそうだった。他人は北の海はいいなあって言うけれど・・

    ・・・そりゃ、たまにはいいさ。だけどやっぱり街がいい。何でも有る。

    悔しいくらい揃ってる。只だだっぴろい海にロマンがあるなんて誰が言うん

    だい?不夜城を見せつけて、悟りきったような顔して説教するのはやめてく

    れ!もしかしたらデーモンに惹かれてのこのこやって来たのかなあ。でも、

    いいじゃねえかよ。人の渦の中で自分の大きさをみたいなあ。」

おエン 「ごまかすんじゃない。あんたは都市に魅せられたって言いながら空っぽの海

    を抱えてるじゃないか。」

ケン 「そう、そうなんだ。このまま誰にも知られずにどこか遠くへ行きたい、なん

    て歌いながらやっとここまで来たものの・・・もうちょっと遠くへ行きたい

    なんて歌があったらなあ。」

おエン 「えっ?」

ケン 「僕は街に憧れを持ちすぎていたんよ。つまりシティボーイになりたかったの

    ね。田舎出はこれだから困っちゃうんだ。つまり、自由を求めていたんよ。

    つまり、純粋なんよ。美しい、グーッ、しびれるぜ。つまり、立場が自由を

    束縛してるちゅうかなあ。」

おエン 「もひとつ、つまり?」

ケン 「つまり、僕はここで考える。」

おエン 「さすが、ケン。」

ケン 「さよか。」

おエン 「はいな。」

ケン 「虫も殺せぬこの僕が、いざ他人の前に出ると・・・ツッパッちゃうのよねえ

    ・・・・別に侮ってないのに。」

おエン 「上ノ国へ帰ろう。コップの海を失くしたケン。」

ケン 「帰りたい。」

おエン 「帰ろう!薄暗い天空と鉛色の海が反目しあいながら凪いでいるだろ。見てい

    ると、とてつもなく大きな怪物のようにうごめいて見える。ニシンはまだ来

    ぬかと呼び交う声は虚しく海原を走っているが、若衆たちの眼は夕焼けのよ

    うに赤く血走っているだろ。まだニシンを追っかけていたケン。浜は浜で、

    大漁旗が揺れて帰るのを今か今かとこれまた鵜の目鷹の目。ニシンが幻の魚

    と呼ばれて久しいが、やっぱり海を睨んじゃってさ。ひりひりするんだよな

    。借金抱えてこれから首吊りに帰ろうかとトボトボ砂浜を歩く奴も出てきて

    、グッ、グッてよ、胸がグッ、グッてなるんだ。重い、重い、砂が重い。

    潮騒はこの世のものとは思えぬ咆哮だ。でもさ、ケン、死んでも離れられな

    い。首吊ったって逃げたりしないよな。おエンだってやっぱり帰りたい。

    こんな街中で死にたくないものな。街の中ほっつき歩いて眼にするものは皆

    魚の顔つきしてるだんべ。帰ろう、帰るんだ!海が待っている!」

 

ケンとおエンの「さよか。」「はいな。」が、子供の遊びを彷彿とさせるものであって、子供はそうやって呼び交わすことを飽きずに楽しむ。それもこの後半に来て、「さよか」「はいな」と呼応するセリフがここにあるなんて、

素敵だと思う。

 

出会うシーン毎に、昨日のことのように思えるたった一日が、振り返れば、一年の長さだった様にして、

ケン   「どの位たったかなあ、あれから。」

おエン「半年かしら。」

ケン   「昨日からだと思ってた。」

二人の人生は、早回しする。

 

このような一連によって、象徴性を感じさせるというのは、『オイディプス王』の戯曲からの影響かと思う。

もしも、劇団極の芝居が結成以来、歩みを揃えるようにオイディプスのストーリーに倣っているのだとしたら、を考える。

キリスト教の新約聖書物語(起源)が、(イエス・キリストその人が本当に実在したのだろうか?本当は、イエスは複数人の人格の集合なのではないか?などなど不確かな)イエスという人物の犠牲による物語の再構成(考えようによっては脱構築)であるのと同じくらいに、私も含めて、役者や劇団というのは、オイディプス(の犠牲)による『オイディプス王』によって、自分自身の物語をも、千年ひと昔のサイクルで、今も、再構成しているのかと考えないではいられない。

(哲学的な事件として、オイディプスにまつわる著作物によるムーブメントは、1970年代にあったのだから、流れを受けたとして座長がそこにくびきを見ることになるのは自然だった。そして、世代違いの私たちが、けりをつけないで引きずるのも自然なことだ。)

ギリシャの三大悲劇のひとつである『オイディプス王』が、一つの隠喩となる。

実の父親を殺してしまい、実の母親と結婚生活を送ってしまう。そして子供も生まれてしまう。オイディプスは、民衆からも追いやられ、自ら、両目を潰し魂を奈落の底まで蹴落としてしまう。

『オイディプス王』は、フロイトが発明した精神分析学では、父殺しのストーリだ。ギリシャ悲劇のストーリーでは、生涯かけて生き地獄ではあったが最後の最後に祝福がある。

そして、目を背けることなく、mother f***の、忌むべき残酷さの物語だ。

誰が怒りと絶望を禁じ得ようか。

自分が今生きているという、事実を支えているのは、ご先祖の人々が手を染めた幾多の罪によってなのだ。

 

罪の意識に押し潰されてはいけない。

人間の罪を見つめなければ善は始まらない。

少年少女は、ビビらない。

 

おエンが最後の最後に言う。

「千年ひと昔のサイクルは身体の内外でゆったりと何者かを伝承し続けながら、その流れに任せっきりになる。そしてついに一巡りの幕をおろし、昨日の昨日のひと昔の集積が、気の遠くなる速さで押し寄せる。」

 

そして、ケンに悟すのだった。

「ひと昔のケン、ほら聞こえるだろ、瞽女達の歌が!」

 

(先回りしてラストシーンについてを解説してしまいましたが、まだ、終わってはいないのだった。少年と少女が、風になぶられ不安げに佇んでいるのだった。)

おエン「帰ろう、帰るんだ!海が待っている!」

 

         音楽。瞽女たち現れる。

 

(『無尽の涯』の台本を持っていないでブログを読まれるのだとしたら、なんだからと思いまして、沢山のセリフを引用いたしております。)