ここまでの説明で主人公以外は、出揃いました。なぜ、順序がこうなってしまったのかというと、まずは、私が、つい自分の出番を最初に持ってきてしまったからです。

では、そうなってしまったのは変えられないので、いよいよ肝心の「ドアタマ」といきましょう。

 

「ドアタマ」の中でも最(さい)ドアタマは、       三人の瞽女、現れる。

 オープニングシーン            口々に「カンザシ返しておくれ!」

           

               そして    瞽女達「カンザシ返しておくれ!」

                      と言いながら、去る。

 

                 そして    音楽。女、現れる。

 

 

 

なぜ、私は作品の解説のために、このような勿体ぶった手法を使うのかというと、これは劇団の、だけではなく、もしかすると全演劇人のためのツルギーに書かれたセオリーかもしれない「ドアタマ」についてを書いているからです。

ドアタマが一番大事だ、登場が一番大事だ。座長は言う。

登場がダメなら全部やり直す。

来る日も来る日も、来る日も来る日も、芝居の稽古時間のほとんどはドアタマが主役ならば主役の登場が、脇役がドアタマならば脇役の登場が、と、全てが「登場」に費やされた。

 

三人の瞽女が去った後に、音楽。

フランク・ミルズの「詩人と私」だった。この曲はいまだに人気がある。ジャンルはイージーリスニングである。いかにも作業中のBGMという聴き方をしてしまえば、そういう曲なのである。

 

フランク・ミルズの「詩人と私」は、北24条の街頭スピーカーから、近隣ショップの宣伝と共に微かなBGMで流されていた。交差点角の市場の斜向かい、酒屋から、コーヒーショップ、人一人が通るのにやっとの小さな書店などが並んでいて、それらがやがて衣替えして居酒屋やファーストフード店や100円ショップに変わってゆくまでの間、ゆったりした長い期間に渡って流れていたものである。私は、北24条あたりを歩いていて、「詩人と私」が聞こえたらキョロキョロしたものだった。交差点角の電信柱にスピーカーがくくりつけられてあった。スピーカーが何かの理由で撤去されるまで、外に音楽を流していた。

私は、ものすごく長い期間に渡って飽くことなく「詩人と私」を稽古場と外で聞いていたように思う。

 

女(おエン)「荒れてるぜ、荒れてるぜ、荒れてるぜ。変わり果てましたねここもかし

      こも。人の血を求めているのは吸血鬼だけではありません。波の音も血

      を求めています。ほら、あいたま風が吹き出した。鰊よやって来いと吹

      いている。そして間もなくヒカタ風になり、したきつけて荒れますです

      。はい。」

 

               少年、現れる。水の入ったコップを持っている

 

少年(ケン)「あなたでしょ?」

おエン  「あなたどなた?」

ケン   「きっと・・・・あなたとは無縁でいたい人です。ケンです。海と共にや

     って来ました。」

おエン  (笑って)「あら、これ海なの?」

ケン   「ええ、コップの海です。初めまして。いつもあなたのことを考えていま

      した。」

おエン  「会ったこともない私を。」

ケン   「お母さんはやはり殺られたんですか。」

おエン  「ええ、死にました。」

ケン   「やはりね。まんざらあなたのことを知らない僕ではないでしょ?それに

     一度はあなたにお会いしたいとも思っておりました。」

おエン  「どうして?」

ケン   「海が唸るんです。あなたに会いたいよおって。」

おエン  「海から好かれるなんて不思議ね。」

ケン   「僕はコップの中の海といると普段僕には見えない物まで見えて来るんで

      す。何もかも透けて見えるんです。」

おエン  「いやあん。」

ケン   「いやだあ、もう!。」

 

                 間。女、カンザシを落とす。

 

ケン     「落としましたよ。」

おエン  「風が強くなりだしたね。ここは海なんだ。」(カンザシを拾う)

ケン   「えっ?」

 

このシーンのあとに、ヤクザ宮沢が登場して、喧しくクラークや店員やらが入れ替わり立ち替わり登場の酒場界隈シーンとなる。

このドアタマの瞽女三人シーンと、少年と少女のシーンで『無尽の涯』の物語というのはおおよそが語られていることになる。

そうではないだろうか?

稽古場の蛍光灯が、オレンジ色がかった舞台照明に変わった時に、私が見た浜辺はそうではなかっただろうか。

なにせ、登場シーンにエネルギーの半分以上を費やそうとする、そういう芝居はどういうことになるのかというと、役者の存在感で、語り尽くそうということになる。フィクションでありながら、登場人物の個々が抱える人生観までをも語ってしまおう。決してステレオタイプのキャラクターではなく、その人物になってしまおう。その人がどういう人で、どんなことが起きているのかはセリフが語ってくれる。だから、セリフで説明してくれるところはセリフに任せてしまえばいいのだから、役者は、本物の、実存主義の登場人物になろう。

座付き作家の台本のセリフには、登場人物が腹をくくるように言うセリフが、忽然と顔をだす。

「私は私以外になく、私そのものです」

(『走狗』主人公の女のセリフ。他台本にも別バージョン的なセリフがある。)

それら、セリフであってセリフでなさそうな、とれたての野生のじゃがいものようなセリフが生きるとは、冷笑的な仮面が未だあったなら剥がし落とすことに一役も二役も買うことになる。役者は自分と役とを図りかねるだろう。

 

筋書きは、復讐劇なのではあるが筋書きを無視してでも

『無尽の涯』は、少年と少女の物語である。

二人が出会うシーンは、まるで耳の奥で音楽が鳴るようだ。

 

おエン  「たった一言の言葉でひどく傷ついたりしますよね。夕暮れの街角で何となく

      言ったさよならが胸に刺さったりしますよね。ぼんやり人々の行き交うのを

      感じながら、この人死んじまえ、この人死んじゃいけないと数えたりして

      ・・・・・・・。」

ケン   「ここは?」

おエン  「海だったらねえ」

ケン   「ここは?」

おエン  「どうしてそんなこと聞くの?」

 

笑うと少しにやけて見える少年と、女の子然としていて、それでいて他人にはどこかぶっきらぼうな少女の、自然な立ち姿が思い浮かんでくる。なんという瑞々しいシーンだろう。

 

トシをとったら描けない世界というのは確かにあるものだと、思う。

 

少年と少女というのは、状況劇場から始まって小劇場へと続く演劇シーンにおいてはセオリーなんだろうか。私は、日本的だと思う。私だけではなくて、外国人も日本人が思うように思うのだったら、それなら日本的と感じさせるセオリーに収まらない・・少年と少女はなんなのだろう?

このように、少年少女のいる世界観というのは、描こうと思って成される訳ではないだろうと想像してみても、一方では、ジブリ作品も少年少女の世界であるわけだし、少年少女文学館みたいな「世界」を描こうという意図のある作家もいることはいるかもしれない。

が、役者同士の交流で生まれたともいえるような、出会いは偶然にして必然、必然にして偶然。出会ったはずみで創作されたかとでも思えるような、ステレオタイプにありがちな少年少女像には収まらない、創造的なふたりなのではないだろうか。

 

二人のシーンを描写しようなんてのは、私のこの表現力を超えている。

ヒップが少年でホップが少女なんだろうか。

ヒップが少女でホップが少年なんだろうか。

いやどっちでもいいんだ、そんなことは。

 

アルチュール・ランボーは、地中海を渡ってアフリカへ行った。見つけた!何を?永遠を!と詩にしたためはしたのだが、口をついて出たのは「僕は死なない。」だったはずだ。

Elle est retrouvée.

Quoi ? - L’Éternité.

 

Je ne mourrai pas.

 

 

ケン  「僕は死なない」

おエン 「いつかは死ぬでしょ?」

ケン  「いつまでも死なないって気がしてならないんだ。デパートの屋上から飛び降り

     ても、汽車にぶつかっても、毒を飲んでも、平気の平左で生きている」