先日、俳優の樹木希林さんの言葉が綴られた

「120の遺言」を再読させて頂いていました。


樹木希林さん、亡くなられましたよね。
いつだったか、もう何年か経つかと思います。

本著の副題「死ぬときくらい好きにさせてよ」
いいですよね。
希林さんらしくエッジのきいた物言いが聞こえてきそうです。


希林さんは折に触れておっしゃっていたいましたが、
子供のころはご自身は自閉症だったと。
本当に言葉を発しない子供で、小学4年生の時に、鍼灸屋で針を打ったところ
しゃべるようになったと。
不思議なエピソードです。
希林さんの風貌やたたずまいなど、独自のにおいを感じるところでありますが、
生まれやこのようなお話をお伺いすると、「さもありなん」ですね。


上述の著書では、その時々のインタビューでのコメントが120の言葉にまとめられている
のですが、二回目拝読させていただき、一回目に加えて、また想うこと多々ありです。


そんな中で、こんな言葉がありました。

 

さて人間としてどう終了するかっていうふうに考えると

これはなかなか

「未熟なまんまで終わるもんですねえ」

というのが実感だから


なんていうのか

達観されていますよね。



確かこれも樹木さんが仰っていたように思うのですが、
なぜ人は自殺をしてはいけないか、の理由。

これは私も同じ考え方なのですが、
人は個体としての"意識"を持っているように感じていますが、
我々の体を構成している細胞は日々入れ替わっています。
入れ替わっていますが、例えば田岡という私はワタシを維持しています。
いわゆる動的平衡、寝て覚めても、一見田岡です。
でも入れ替わっている。

他には体の中には腸内細菌だったり、近年では体の至るところに
ウイルスが存在している、いわゆるヴィロームという観点で研究がなされて
明らかにされつつあります。
ほかには、マクロファージだったり、好中球だったり、免疫細胞もひしめいています。
もはや私の体は宇宙です。
私のことをワタシといっていいのか、とも思える。

自殺は自分の意志で、その他者たちのその営みも止めてしまうことになる。
自分は自分だという意識、で自殺を捉えてしまうと、自分だけで完結してしまう。
ただ、私たちの体に存在する無数の他者は、まだ生きたいと願っているはず。
それを意図的に止めてしまうことは、やはり自殺(自分を殺める)という問題
だけではないことになるのです。

希林さんも確か似たようなことを仰っていたように思います。


せっかく人間として生まれたからにゃ。
そう思います。
いずれ我々は死にます。
死亡率100%。
だったら急ぐ必要はないですよ。

人間に生まれてこれるなんて、かなり特別なことなのかもしれない。



さて、明日は…
論文かかにゃ、実験せにゃ、学生と打ち合わせにゃ
そうそう、息子と遊ばにゃ

まだまだ、死んでいる場合じゃありません。
いつか生ききったら、もうここいらかな、と思える日が来たら
自然に旅立てたら、最高です。

死ぬときくらい好きにさせてよ、ってことですね。