三島さん、なんて書くととても恐縮してしまいますが、

"三島さん"としないと、なかなか言葉にしにくいような感じもあり、

なんていうんだろう。

 

私は個々の人生を定規になぞらえて、並べてみるって表現をすることがあるのですが

三島さんの定規と私の定規を並べても、時系列的には重ならないんですよね。

ただ、そう俯瞰すると人生ってホント面白いなあ。

少し、その定規をずらしただけで、お互いが出会える瞬間があったかもしれない。

 

少し、話がそれました。

閑話休題

 

 

 

そうそう、三島由紀夫さん。

 

とても過去の映像や言動など、アクセスしやすくなった時代ですが、

かの三島由紀夫さんのインタビューを拝見することがあります。

 

日本では、もちろん海外でもその名が知られる同氏ですが、

あの1970年の自衛隊に決起を促し、そして人生を閉じられた時。

私はまだ生まれていませんでしたが、氏の言葉には

多くの感銘を受けてきました。

 

一方で、首だけとなってしまった氏の姿を、写真とは言え対面したとき。

衝撃とは違う何か、どろどろとした感情が生まれたことも覚えいています。

 

 

あるインタービューで三島さんはこう語られていました。

 

「I don't like that the Japanese culture is represented only by flower arrangement or such sort of a peace-loving culture(日本文化を代表するものが生け花だったり、平和愛好的な文化だけだと思われるのは、気に食わない)」

 

「I think we still have a very strong warrior mind, you know(我々の中には強烈な侍の精神がまだ存在していると思っている)」

 

その時代時代の、当たり前のものだったり感覚は、その時代の特定の者たちに作られている可能性が高いかもしれません。

人々がコミュニティを超えて"国家"というものをもったり、都市化された世界を構築した時点で、そうなのでしょう。

一方で、都市化というのは、すべてを押しなべて平らにしてしまう。

見方を変えると効率化という分母が生まれ、そして均質化していく。

 

これまで、私が生まれた昭和に至るまで、形式上は"国家"があった。

その先に、人類が向かおうとする"均質化とはなんだろう"

 

そんなことを考えていると、時折、三島さんの言葉が浮かぶ時があります。

 

 

さて、3月も折り返しが近づいてきました。

大学は入試、そして新学期。

新しい入学生が、来ます。

これも定規が重なったと言えるのかな?