生きるも死ぬも、物の一表現にすぎぬ。

いちいちかかずらわっておれるものか。

人間、事を成すか成さぬかだけを考えおればよいとおれは思うようになった。

 

これはかの司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の中の一節。

 

 

この一節をなぜ思い返したかというと、

シミュレーション仮説のことを考えていたからだ。

 

このシミュレーション仮説は、スウェーデンの哲学者ニック・ボストロムが提唱しているもので、

人類が営むこの全ての世界が、シミュレーデッドリアリティであるという仮説、

すなわちこの世は全て、何らかの人工知能下でのシミュレーションとして成り立っている、という仮説。

 

この説の中では、シミュレーションで生活している我々は、

この世界がシミュレーションであることに気づくことはなく、

"実世界"として、生活を送っている。

そう述べられている。

 

統計を見たわけではないが、この仮説を見て、

比較的多くの方が「そんな馬鹿なことあるかいな、マトリックスじゃあるまいし」

と思うのではないだろうか。

 

 

この仮説の肯定否定は抜きにして、

世の中ってのは、感覚的にこれに近いところを流れているのじゃないだろうか。

 

 

科学の限界はわかっていても、科学は”真実”として時代を牽引してきた。

 

その科学が少しでも世の中の真実に触れそうになったとき、

何かが失われる。

 

人はどこから来たのか?

 

人はどこに行くのか?

 

人は死んだらどうなるのか?

 

宇宙の真実はどこか?

 

 

いや、触れそうにもならないまま、

宇宙は一巡するのだろう。

 

 

このことと上述の仮説は、全く相まっていなくて、とても近い。

 

 

そんなことを考えていて、ふと心の琴線に触れた一節が冒頭の台詞。

 

 

 

生きるも死ぬも、物の一表現にすぎぬ。

いちいちかかずらわっておれるものか。

人間、事を成すか成さぬかだけを考えおればよいとおれは思うようになった。

 

 

もうすぐクリスマス・イブです。