ある海外の報道記事を読んでいて、このような報道がありました。
ロシア連邦の某共和国に生活する先天性の頭蓋骨変形の2歳児の子が、
保育園に入園するにあたり、園側から拒否された、という報道。
この子は手と足の指も融合して生まれてきた、先天的な変形を有してるそう。
理由は、
園児が怖がるから、
だとさ。
手術してこい、
だとさ。
感情的にならずに、本件に想うこと。
やはり人は"自分"で生きているということだ。
何が真理か、何が間違っているか、いないか。
善か悪か。
二元論で問うことも無意味だが、
いずれにせよ、そうなんだろう。
養老孟司氏が言うところの、死体には3人称があるという話。
三人称の死体は、ゆかりの無い方の死体。
二人称は縁のある方、親しい方の死体。
そして一人称の死体。それは自分自身で、見ることはできない、という。
この考え方は死体に限らず、この世を生きているヒトがもつ性なんだろう。
通常、記事の中の保育園側が、このような言葉を相手に投げる場合、
知り合いだと躊躇するし、考え込むだろう。
思いやりたい。
二人称のこの子。
それが、
無碍もなく言い放つ、
三人称のこの子。
人は悲しいかな、この人称に縛られている。
私も含めて。
人は"自分"で生きている。
生かされているのも、わかっている。
でも生きているのは"自分"。
極端に言えば、
子供や恋人、家族。
強い二人称さえも淘汰して、
「自分」に行きつく一人称の世界。
先日「スタンダード」というタイトルでブログで載せさせていただきましたが、
このときの想いは、今回の同じところを流れている。
https://ameblo.jp/lactoyoccus-mem/entry-12529813095.html
一人称の自分。
机の上に置かれたダイスを右手で握ってみる。
そのまま、机の上にダイスを振ってみる。
出てきた数字を確認してみる。
机の上に置きなおしたダイスを左手で握ってみる。
そのまま、同じように机の上にダイスを振ってみる。
出てきた数字を確認してみる。
同じ数字だったとしても、それは同じような数字であって、
ただ、それだけのことなんだろうか。
ふと、今朝の記事を読みながら思っていました。