人生は物語で、その周りをまわっているものが旅なんだ

 

と、私は感じています。

 

このブログでも何度となく触れていますが、

この感覚が、とみに強くなっています。

 

 

「泣きながら生まれる子供のように」

と謳ったのは、中島みゆきさん。

 

 

人生100年時代が喧伝されてから、久しくなりました。

このことと真剣に向き合いながら、どこかゲップ気味の私。

猫も杓子も、このロジックに入ってしまった。

 

そうだ、人生100年時代ではなく、余命100年としてみよう。

 

人生が、平均寿命が20年も伸びてしまった。

そう思うより、

余命100年の時代だ、と。

 

その方が、後ろ向きのようで、

実はいのちに近い。

覚悟、という言葉は安易に使うのは好きではないが、

覚悟を持つためには、

それでもいい。

 

 

 

「泣きながら生まれる子供のように」

と謳ったのは、中島みゆきさん。

 

 

この歌詞の前後を広げると、こう。

 

めぐり来る季節をかぞえながら めぐり逢う

命をかぞえながら

畏れながら憎みながら いつか愛を知っていく

 

泣きながら生まれる子供のように

もいちど生きるため 泣いてきたのね

 

 

ね。

切り取ってしまうと、そうなってしまう。

歌も、歴史も、ヒトの人生も。

 

物語は切り取るだけでなく、シーケンス。

延々と流れる川の流れが、旅。

それが人生とはまた別のところを流れている、宇宙の真理。

 

さて、今日の東京は涼しいですね。

皆さん、おやすみなさい。

そして、おはようございます。

 

 

 

 

 

 

現在、東京国立博物館で開催されている特別展「三国志」。

この関羽は、桃園の誓いを立てた劉備、張飛、そして関羽と

蜀の国の主人公3名の一人ではありますが、その扱いは特異です。

 

彼は神になった。

その歴史的なエピソードと、言い伝えも相まって、

彼は神となった。

 

私は小学生の頃から関羽が好きですが、

この感覚が、作られた歴史でもって喧伝されているプロパガンダによるものなのか、

純粋に、幼い私が感じた感覚なのか。

 

もはや、それを辿ることはできません。

 

歴史は本当に、歴史。

角度と覚悟を変えることで、全く変わってしまう。

 

人の気持ちもそう。

 

本当の自分なんてない。

 

物語が、その人の人生を連れていく。

 

どう、感じるかだ。