ヒトは、皆、明日があると想っています。
そうではない、と理屈の上ではわかっていても、
理屈で、永遠を紡ぎだそうとします。
明日、災害で死んでしまうかもしれない。
明日、事故で死んでしまうかもしれない。
そして、明日、思いがけないことが起こって、死んでしまうかもしれない。
生と死は「生」と「死」と、語られることが多いけれど、
私は、ひとつのシーケンスだと想っています。
ですので、このブログでも触れたように、
鴨長明のような、"流れ"でもった、感覚が必要なはず。
私は、幼い頃から、漠然と死が怖かった。
戦争で、凄惨な死の様子を写真で見た。
心から、子供の私は震えた。
でも、それだけではないんだ。
死者を"鳥葬"でもって、送り出す風習もある。
今でも、形は違えども、"通夜"といって、死者とともに過ごす時間が日本にも残されている。
それでも、生と死は、限りなく、離れてしまった感覚がある。
私は人生は旅ではなく、物語と想っている。
川の流れのように、生も死も、シーケンスであるべきだ。