先日、NHKの何かの番組を見ていた時、インドのことわざの一節が紹介されていました。

 

なんとなくしか覚えていませんが、

・心が穏やか(和やか)であれば、どのようなことも楽しんで受け入れられる

といったような一節。

 

英訳でのナレーションがバックに流れていました。

 

日本でも似たようなことわざありますもんね。

 

清濁併呑(せいだくへいどう)ってのもあります。

が、この場合、上述のインドのことわざの意味とは、

重なった双子のようでもあるが、その実は虚である

という感じで、少し違うかなぁ。

 

 

 

さくらサイエンスというJSTの支援による国際交流プログラムがあるのですが、

この2月はこのコーディネーターの一人として、この対応に当たっています。

 

私は仕事柄、国内外含めて飛行機に乗ることは多いです。

一方高所恐怖症の気もあるので、毎回、飛行機が飛び立つときは心の中でお祈りをしています。

 

 

さて、国際連携に携わっている者として、グローバル化だとか国際交流だとか

このことについて想うことがいろいろあります。

大学間レベルでなく、世界で起こっていることについてもです。

 

私は胡散臭いグローバリゼーションという言葉には、かなり警戒心を持っているのですが、

学生が世界に飛び立ち、世界を視野に入れることについては、うれしく思いますし、

そのような素養を持ってくれるような大学の活動を展開したいと思っています。

 

が、人は、国は、世界は、文明は、システムでなりたっています。

その上に乗っかているグローバリゼーションは、胡散臭い。

いや胡散臭い、で終わればいいですが、世界的な広報戦略に乗ってしまっているのでは

そんな気さえしてします。

 

 

 

まだ終わっていませんが、なんとなく(日本では)下火に)なっているイスラム国の問題。

その周辺のシリアや何百年、いやそれ以上の長い歴史がもたらしている

軋轢や慟哭、そのことについて整理ってできているのでしょうか。

 

最近、イスラム国のニュースは少なくとも日本の大手の報道局からの発信は激減しています。

が、現地の通信社の報道を見て観ると、まだまだ状況が読めないような現状があります。

 

 

ある報道写真で、2-3歳の双子の男の子が爆撃で死亡し、その亡骸を抱えている父親の写真が掲載されていました。

たしかシリアだったと思います。

 

私はじっとその写真を見ながら、親子の様子を見ていました。

ローマ法王の発言もあり、長崎の原爆の「焼き場で立つ少年」が、再度注目を浴びていましたよね。

原爆で亡くなった幼い2-3歳の弟を背中に背負ったまま、直立不動で立っている少年の写真です。

私はこの写真にまつわる長崎市が発行した書籍を購入したのですが、この写真と上述の双子と父親の

写真を重ねていました。

 

 

私の妻は、見たくないといっていました。

 

もっともです。

ただ、私まだまだ心の整理がつかないんです。

つかないからこそ、いろいろ知らなければならない。

知ることは教養です。

ふざけた、甘えた考えかもしれませんが、私はそう思います。