先日こんなことがありました。
あるレポート課題を出しました。
〆切もあります。
続々と集まってくるレポートたち。
そして期限が過ぎました。
期限が過ぎて、ある学生がレポートを出しにきました。
二週間も過ぎて、ひょこっと現れて、よく普通に提出できるな~、と私。
するとその学生、
「先生、二週間も過ぎていません。10日だけです。訂正してください」
どうですか、この話?
といってもこの話、少しシチュエーション等や中身を変えています。
先日あったことは、レポートの話ではないのですが、意味合いとしては同じです。
「10日だけ」って、結局随分過ぎているじゃないか、ということに気づかないのです。
そのことよりも、10日に対して、2週間、すなわち14日なので、4日多く見積もっている
ことに着眼しているわけです。自身の提出遅れについては二の次で。
このことは示唆的です。
特に物事の核とはなんなのか、さらには「数字」というものの難しさ。
シチュエーションを変えてみましょう。
法廷で裁判官が、
「あなたは50人もの罪のない人を殺害しました。手口はきわめて悪質で、罪のない人々を殺害した被告人に、弁解の余地はありません」
と殺人犯に言い渡しました。
すると殺人犯は、
「ちょいちょいちょい、裁判官さん。私が殺したのは23人だよ。倍も多めに見積もってんじゃねえよ。それに悪質と言ったが、大方はクロロホルムでこん睡状態にした後に、練炭で殺したんだ。優しい方だよ。それに他の案件も、うしろから一撃でやってるんだから、即死ですよ。苦しんでない。どこかの戦争の悲惨な状況より、悪質でないと思いますがね」。
こんな話どうでしょうね。
極端な例ですが、事実と数字と真実は、非常にまじりあっており、その意味はシチュエーションんで変わってきます。
このような案件は、自身の生活レベルから国家間の問題まで、あらゆるシチュエーションに内在しています。
数字って大事かもしれない。
平成28年度 交通事故死者数: 3,904人(警察庁)
多いですよね。
でも100人だったら、どうだろう。
今年は少なかった良かったね、となるのでしょうか。
物事をグロスで考えることはやはり危険です。
マジョリティがマイナリティを制御してしまう危険性を波乱でいますからね。
「100人の死亡」と、「1人の死亡事故が100件」あった、というのは
同じ事象を指しているようで、実は全く違うカラーを示しています。
そうそう話が広がってしまいましたが、
冒頭のレポートの話のようなことがいろいろあるんですよね。
いろいろ考えさせられます。
さて、今日は書類提出の天王山。
これだけはやりとげるぞ。
あっ、あの事務書類捌くの忘れてた。
そういえば、あのサンプルの処理忘れてたぞ、
何サンプル合ったっけ。
となると今日やらなきゃいけない案件はいくつだろう。
1,2,3,4,5・・・
・・・どうやらわたしも数字のグロス化にむしばまれているようです。