唐突だけども、少しぶっ飛んだ話をしよう。

 

 

この現実を作っているのは自分だ。

引き寄せの法則は、常に行われている。

常に、願いは叶っている。

 

何故なら、思考こそが現実であり、

ここには無意識も含まれるからだ。

 

全てが自分に100%責任があるのだ、ということを受け容れられるだろうか。

 

誰のせいにも出来ない。

また、誰のせいでもない。

 

自分も、誰も悪くない。

 

ただ、この世のしくみがあるだけであり、

 

”私”という実存が、そこに在るのだ。

 

そして生まれた時から、既に叶っている。

 

そんな、ぶっ飛んだ話もある、ということ。

 

 

 

人は生まれるべくして、生まれてきた。

 

何度でも、やり直し、幸せになるために生まれてきた。

 

 

 

 

『子供が生まれる時、その子は、自分がどんな目的を持って転生してきたかを、

心の奥ではっきりと知っています

 

つまり、自分らしく生きて様々な経験を楽しもうとしているのです

そして、明確な目的意識のもとに、家族と環境を選んでいます

私たちは、全員が、同じ使命を帯びてこの地上に生まれてくるのです。

 

さまざまな経験をありのままに受け入れ、それらの経験を通じて、

自分をありのままに受け入れて愛する為に、この地球に生まれてくるのです。

 

私たちが、それらの経験を裁き罪悪感恐れ

後悔などの感情とともに生きる時、

つまり、それらの経験をありのままに受け入れられない時、

私たちは、必ず同じ状況、同じ人々をふたたび引き付けて、似たような経験を繰り返すことになります。

 

ある人たちは、同じ経験を今回の人生で何度も繰り返すだけでなく、

今後何度にもわたって転生して同じ経験を繰り返し、

その結果、ようやくその経験を完全に受け入れることができるようになるのです。

 

経験を受け入れるということは、

その経験を好きになることでもなく、またその経験に同意するということでもありません。

 

そうではなくて、むしろ、

その経験を通して自分にとって必要なことを学ぶということなのです。

 

その為には、特に自分にとって役に立つことと役に立たないことをはっきりと見抜く必要があります。

 

その為には<原因と結果の法則>に意識的にならなければなりません。

 

私たちが感じたこと、思ったこと、決めたこと、言ったこと、行ったことが、

一定の結果を引き起こすということを知らなければならないのです。

 

現在、人類は、ますます智慧に満たされた生き方をしようとしています。

そのためには、自分にとって都合の悪いことが起こった時

それを周りの人や環境のせいにするのではなくて、自分自身がその原因を作ったのだということを(それは無意識的であったとしても)見抜かなくてはならないのです

 

それが、経験を受け入れるということなのです。

 

自分がその原因を作ったということを見抜かない限り、「もうそんな経験はしたくない」と

いくら言ったところで無駄です

 

あなたは必ず似たような経験を繰り返すでしょう。

 

もしかすると、あなたは何度でも同じ過ちを繰り返し、嫌な思いをしなければ、

自分を変えることは出来ないかもしれません。

 

でも、一回目で気付いた方が、はるかに楽なのではないでしょうか?

 

その為には、エゴに基づいた考え方をやめればいいのです。』

 

リズ・ブルボー 「五つの傷」より

 

 

※エゴとは①↓


 

 

※エゴとは②

エゴの起源を辿るとアダムとイブの話として象徴される。

イブが智慧の実を食べたことで、知恵を得たところから、エゴが生まれたというもの。

智慧の発展、精神の発展と共にエゴは生まれ、成長してきた。

智慧を得たことで、人は無垢ではなくなったのだ―――

そして神から追放されるという話。

 

そしてこの地上に落とされたことで、全てが二極に分離してしまったとされる。

人の身においては、その内に神性(スピリット)と獣性(エゴ)を持つと。

 

神性さとしか言い表せないものを、人は確かにその内に宿している。

 

けれども、本当には、神性や獣性というものはないともいう。

 

この世は二極に分離しているからこそ、

体験できることに溢れている。

 

何故上記の引用を持ってきたのかといえば、

似たような話を何処でも言っているからでもあり、

その上でまとまっているからだろうか。

 

 

 

その事象が起きているとき、

私/あなたが見なくてはいけないのは、

自分だということ。

 

自分の中の何が原因で、それが起きているのか。

 

それは心理学では投影と言われるものでもあり、

自身で知覚していない、自分の無意識の言動が起こす現象でもあり、

相手の中に自分を見るものでもあり。

 

何に気付く必要があるのか。

何を知る必要があるのか。

 

が、ここにある。

 

気付かない限り、同じことは繰り返される。

 

まったく気が付かなければ、それは段々と大きな現象として現れるし、

出来事に対して対処してきたものがあるのならば、

それは少しずつ小さくなるのかもしれない。

 

 

 

誰をも裁くことなく。

ただ、自分と向き合うということ。

 

問題と思っている自分があるだけであり、問題とは、本当は存在しないということ。

 

そしてあるがままを受け容れるとは、

 

そのありのままの事象/出来事/体験と、

その体験からくる自分自身の気持ち、それが例え”恨む”という感情であっても

その感情の存在を認め、許すということ。

 

自分の欠点、強さや弱さ、長所、短所、欲求、感情、人格…、自分の未熟さ。

全てを受け容れるということ。


 

誰をも裁かず、思いやりをもって、受け入れ許すということ。

 

 

 

例えば、

それが拒絶からくる恨みであるのなら、

 

その恨み、”許せない”という感情は自分の中のエゴの感情であり、

本当は、自分も同じことをしていることを、認めたくないエゴがそこにあります。

 

その真実を、認めたくないエゴが自身の中に存在しているということです。

 

その時エゴは、自分に都合よく、そして巧妙に、自分を納得させようとするでしょう。

 

あるいは、経験だけを受け入れたふりをして、自分の感情に蓋をして。

自分も同じことをしているという真実、その不愉快な真実を避けようとするのでしょう。

 

 

 

あなたが誰かを何かの理由で非難しているとき、

相手もまた、同じ理由であなたを非難しているということ。

 

同じ思いをしているということ。させているということ。

 

あなたが他者から受け入れられない時、

あなたも他者を受け入れていない。

もっと言えば、あなた自身が、あなた自身を受け入れていないということ。

 

 

自分を知り、自分を受け入れるということ。

何がそのエゴを生んだのか、自分を知るということ。

 

気付くまで、同じことを繰り返す。

 

その切っ掛けは何処にあるのか。それは何処から始まっているのか――

 

 

何処で、自分を受け入れられない誤解や思い込みを生み、

その現象を起こすのか。事象を引き寄せるのか。

 

知る必要がある。

 

 

 

人には、自由に思う権利も、

文句を言う権利もある。どのように受け止めるのかも、相手の問題。

 

けれども、何がそれを生んでいるのか。

それは、自分で受け止める必要がある。

 

もはや、誰のせいでもなく。

誰も裁く必要はなく。

 

一切を否定しないことを、何処まで貫けるのだろう。

 

 

そして、傷ついた、或いは怒り、悲しみ、恨む感情、罪悪感や後悔は手放す必要がある。

その感情は自分の本質を底に押し込め、見えなくさせるからだ。

 

感情を弔うということ。溶かすという事。

その先に、自分の本質が眠っている。

 

 

 

 

 

 

この分離した世界で、

あらゆる体験を望んで生まれてきたこと。

 

その体験を勝手に評価しているのは人間の思考。

 

誰もが尊い。生まれてきた命だということ。

 

全体性の中で、自分の存在がそこに生きている。

 

全ての出来事に感謝することを、何処まで、体感できるのだろう。