◆アルプス電気株式会社との繋がりは、深くなった。
ある日、週末に温泉で「麻雀接待」という事で、泊りの用意をして出社した。
湯河原に行って、「温泉」で接待と言う訳だ。
相手は、アルプス電気、広報課長と担当、こちらは、黒川部長と私だ。
温泉に入って、ビール片手ののんびりと麻雀だったが、11時過ぎに
お開きになった。
私以外の3名は、明日の予定を知っている。
広報課長と黒川部長は、若手にゴルフの手解きをする魂胆で、まあ、
1ラウンド、何とかなるだろう!と言う訳だった。
明日は、「富士平原ゴルフ倶楽部」で、ゴルフをする。と伝えられた。
私には、ゴルフ道具も、ゴルフをする格好も用意していないと言うと、
黒川部長が、私の分を、「明日は、これを着て! 何とかなるよ!」
広報の担当も、初打ちだと言うのだ。
★生まれて初めてのゴルフ場に入場した。
フロントで記帳し、ロッカーで着替え、そうした事を思い出せない。
今、思い出せるのは、1番ホールが、いきなりの谷越えだった記憶がある。
私とアルプスの担当は、3発打って超えなければ、先に進もうと言われた事を
そして、
案の定、谷は超えなかった。
当然、クラブの握り方も、スィングもあったもので無い。
それでも、「ゴルフ」と言うスポーツは気持ちの良いモノだ!と言う事は解った。
初ラウンドのスコアも何も記憶が無いが、
これで「ゴルフ仲間」が出来た。
赤坂の事務所のあるビルの裏手には、TBSゴルフ練習場があるから・・・
更に、田寺社長も常務も、 会社の当初、「陳 清波のレッスン」と言う番組を
TBSゴルフ練習場で、製作し、その当時教わったと言うのだ。
だが、私の人生で、スポーツは「ボーリング」迄だった。
その当時、田寺社長はゴルフ接待もしており、ゴルフクラブは、ウィルソン社製の
女性用のワンセットを購入し、ラウンドが終わると、相手にプレゼントしていた。
また、ゴルフボールは、銀紙に包まれ、それを閉じる物品税のシールが貼ってあった。
アルプス電気株式会社は、いわき市、宮城、岩手、新潟と工場があり、
広報担当は、出張時にはゴルフが常だったのだ。
故に、社員もゴルフ熱は凄かった。
アルプスの担当は、3年間続いた。その後、他のスポンサーの担当時に、
アルプス電気が、インセンティブで「ゴルフ・ボール」を使っており、
「ダンロップ65」と言うゴルフボールで、アルプスの社マークがプリントされてある。
初ラウンドから、7・8年経過した時で、東京シーエムさんに発注したが、
他社のボール、ブリヂストン社の「イーグル」で、マークを入れてプレゼンしてくれと
言うのだ。
その当時、ブリヂストン社は、3つの販売代理店で、マルシンゴム(関東一円)、
アサヒ商会(東京都内)、そしてもう一つあり、八重洲の本社に掛け合ったが、
そこで、アサヒ商会の「黒川部長」を紹介してくれた。
「アルプスマーク」のオンネームされたサンプルを、赤坂の我が社に届けに来た
黒川部長は、玄関に立つと真っ黒に日焼けした人だった。
我が社にも、黒川部長がいますよ!と紹介した。
そこで、ダンロップ社がアルプスに納品していますが、大丈夫なのですか!と
やたら心配するのだ。 そこで、ダンロップ65をこの金額で納品している。
そこを下回って、我が社にも利益を!と言う。
但し、納品数を提示した。
これには、 黒い黒川部長が驚いた。
単独では決めかねますね。
ブリヂストンの化成品加工部が、ゴルフボールを、横浜工場で作っていた時代だ。
1回の発注数が、3万ダースだった。
そして、八重洲の本社に、同行した。
化成品加工部の部長さんが、「解りました。」と、これを受けてくれた。
ついでと言いては何ですが、
東京シーエムは、こんな会社で、こんな事にできますが、何か仕事をくださいな!
と、営業を展開した。
それなら、と言う事で紹介してくれたのが、ブリヂストンの広報部だった。
これは、まだまだ先の話で、アルプス電気の担当時代がまだ続くのだ。
これは「8トラック、ハンディ8」を、我が社が販売する。
電機メーカーと流通と、普通の所では出来ない、そうした関係が裏にあったのだ。
田寺社長は、京都市立美術大学の日本画出身で、「水墨画」を選考した。
画仙紙に、一発で仕上げる方式で、サイン色紙の4倍位の大きさに書くのだ。
また、同級生が、関西からやって来る「西田 稔」と言う人で、
取引先スポンサーの「日本ビクター」に時々、彼に描いて貰っていた。
彼は、東宝映画の宣伝用ポスター等も書いていた。
そして、アルプス電気だけで無く、ゴルフを始めたと言う事で、
「日本ビクター」「日本コカ・コーラ」の担当者が、ゴルフに行こうと、
当社の黒川部長に、誘って来る。
これらは、接待の一環で、まあ、いろんなゴルフ場に出かけた。
だが、千葉。都下、埼玉とゴルフ場に「接待ゴルフ」が始まったが、
これには、カラクリがあったのだ。
私が始めた事で、五反田の部長宅に会社の車で迎えに行き、スポンサーの担当を
最寄りの駅に立ち寄り、そこで拾いゴルフ場に行く。
あの頃は、ナビも無い時代だ。
道路地図を頼りに、ゴルフ場に行くのだ。
まあ、行きは良いのだが、ラウンド後、風呂に入って、相手はビールなどを飲んで、
帰路の車中は、爆睡だ。
朝に乗せた場所に着くと、そこで起こす。そして、五反田の部長宅から、
赤坂の会社の駐車場に、車を置いて、高円寺のアパートに帰るのだ。
これも、3回・4回と続くと、流石の私も、「ゴルフが出来る楽しさより、負担が勝った。」
そこで、
社長談判した。
「ゴルフ接待から外して下さい。」 と言うと、
そうか解った、だったら「夜の接待に回す。」と言うのだ。
これには驚いた。 私はまだ、23歳の若造だった。
「夜の接待!」ってなんだ!
社長のお抱え運転手、平井賢二さんが、「大変だぞ!」と忠告された。
だが、「ゴルフ接待よりはマシだろう!」と思った。
この「夜の接待とは・・・銀座だった。」
しかも、銀座と言えば、「姫」「純子」「高千穂」、「ピロポ」そして、「キンコンカ」だった。
そのスーツでは、若僧だな!
そので、社長のロッカーから、着れるスーツがあるだろう。と。
ズボンの腹回りを直して、着れる様にした。
何しろ、私の月給の数倍に代物だ。
そして、今夜は「アルプスの部長と銀行の支店長が来るので待機!」と、
業務命令が出るのだ。
さあ、
「夜の接待とは・・・」
経歴 6
カイロ美術館、この中ではあのツタンカーメンが、
カメラは持ち込み禁止だった。
