やはりももクロは凄すぎる! | アンチャンのブログ

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ジャズ・フルート奏者にして東大准教授、
安西信一の苦闘の日々!?
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あまりに忙しく、たまさかスケジュールが空いた回は抽選に落ちるなどして、ももクロの秋のツアーをまったくフォローできずにいた。悔しい思いの空回りする日々が続いていたのだが、やっと遅ればせながら、かろうじて最終回のみ、しかもかろうじてライブ・ビューイング(ライブの同時中継)によってのみ、どうにかこうにか観ることができた。ライブそのものは、被災地、宮城のセキスイハイムスーパーアリーナで行われたのだが、私が観たのは池袋の映画館においてである。


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後で述べる理由もあって、正直に告白すると、そこまで期待していなかった。おまけにライブ・ビューイング。ところが、またしてもである。例によって例のごとく、再び良い意味で期待は裏切られた。実に不思議なのだが、ももクロの大きなライブは、本当にいつも、今回こそが今までで最高だと思われてしまう。このたびの宮城も例外ではなかった。


途中いくどか熱いものがこみ上げてきた。ももクロの場合、大きなライブごとの間隔が比較的長く、前の回での興奮をすっかり忘れてしまっているためだろうか。それもあるが、それだけではない。久々に彼女たちに会えた懐かしい喜び、あるいは彼女たちの成長や努力、純粋さ、ひたむきさ、全力パフォーマンスに対する、あのいつもの、抗いがたい、ほとんど五臓六腑から来る(visceral)、しかし爽やかな感興だろうか。さらには、ありがちなオヤジの感情過多か。むろんそれもあるが、それだけではない。


私の感興は、おそらく正統的なファンとしてのあり方からすると邪道といえるものだった。つまり現代の日本が、これほどまでに優れた芸術的な現象を持ち得るという事実に対する、驚きに近いとはいえ、いってみればいささか覚めた歓喜である。それにリアルタイムで立ち会っているという至福を、反省的に噛みしめることからくる歓喜。


そう思わせるまでに今回のライブはよく出来ていた。史上最高と思わせるほどに。ごく大くくりにするなら、演出の勝利といってよいだろう。しかも、賛否両論が飛び交った、やはり演出の縛りが強かった前回の春ツアーとは違って、非常にわかりやすい。内容は哲学的なのだが、にもかかわらず誰もが容易に共感できるものに仕上がっている。もちろん、春ツアーにおける実験という布石があったからこそ、今回の成功があったのは確かなのだろうが。


このたびのテーマはなんと「仏教」。すでに記憶が薄れ始めているので正確かどうか自信がないが、忘れないうちに私なりの個人的感想を簡単に書き留めておきたい。


全体、特に第一部の構成は、どこか「仏法東漸」を思わせた。仏教がインドに発し、終に東方の日本に至るという道行きである。


冒頭は明らかにインドの修行僧のような出で立ちのダンサーたちが、メンバー五人を表す白い玉(=魂)をもって入場してくる。このライブは、『GOUNN 』というももクロのシングル発売とリンクしたものだが、「五蘊」とは、もともとサンスクリット語の仏教用語で、人間の精神と身体を表す。この五つの玉=五蘊が合わさって(五蘊仮和合)、ももクロという一つの大きな人格が出来るということだろうか。もともと仏教では、五輪塔や五色など、五という数は重要であり、五人のメンバーとの重なりを追究するのは、当然とはいえ優れた着想である。さらに、きちんと確認しなかったのだが、メンバー以外のダンサーは八人いたようにも思う。そうなると「八部衆」、つまり仏法を守護する八神を表すということかもしれない。


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仏教的なモチーフは、梵字を真似たレタリングや千手観音のモチーフなど、随所に散りばめられており、挙げればきりがないので細部は省略する。が、とにかく、途中から「旅に出よ」というような、仏の声と覚しきナレーション(久米明)が入る。そして(もしかするとその前からあったかもしれないが)、鳥獣戯画や千鳥などの日本的な絵画や和風の模様がスクリーン上で多用される。それがインドから日本への、仏法東漸を思わせたのである。


また第一部の最後では、ガンダーラ仏的な巨大な仏頭がスクリーンに映し出され、それにももクロが対面する形を取る。これは旅が終わる、ないし一段落するということでもあるだろう。あるいは、もしかすると「仏法西還」、つまり日本に来た仏教が再びインドに還るという、日蓮の思想を体現することになるのかもしれない。


いずれにせよ重要なのは、この全体的な道行きが、同時に聖から俗へ(さらには再び聖へ)というベクトルとも重なるように思えたことである。これも記憶が曖昧だが、最初にももクロが登場した際の衣装は、修行する菩薩のようなものだった(特に頭飾り;三蔵法師風なのかもしれないが)。それが次に天部ないしむしろ飛天を表すようなものへと衣装替えし、さらにやはり天部のようだが、もう少し俗なものへと衣装替えする。そして最後の一曲で再び、シングル曲『GOUNN』の正式な衣装である、いっそう荘厳された菩薩の衣装へと、目まぐるしく衣装替えした。これは仏、仏法、ないし仏道修行の多様性(たとえば十界のような)を示すものなのだろうか。いずれにせよ、第一部の最後の一曲を除けば、大雑把にいって聖から俗という流れを示しているように思われた。


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加えて、休憩(そこでも五体の仏像がステージ上に立っている)を挟んだ後の第二部は、完全に俗の世界であり、第一部の仏教の荘厳さとはうってかわって、いつも通りの楽しいももクロの世界。ここで初めてサイリウムの使用が許され、MCが始まった。そして例によってのバカバカしい、ゆえに楽しい「茶番」(寸劇)やら、妙な具合の告知やらがいくつか挿入された。それらのことも、聖から俗へという全体的な流れをいっそう強く感じさせた。あるいは大まかに「ハレとケ」ないし「真行草」という流れだったといってもよいだろうが、その「ハレ」「真」の部分が「聖」ともなっていたわけである。


この聖から俗への流れは、今回のライブのみならず、一般にももクロを考える上でも重要だと思う。第一部の最後では、いささか説教臭くもあったが、これからの日常の中でも仏法を忘れず生きてゆけというような趣旨のメッセージが、仏の声によってなされた(やはり記憶が曖昧なので正確ではない)。つまりは、俗の中に聖があり、日常の中に仏法があるということだろう。これはいわゆる、「凡夫即極」「即身成仏」といった小乗的ないし鎌倉仏教的な考え方を示しているのかもしれない。そうなると、日常のただ中における超越ないし宗教性という、ももクロの深層をなすと私が考える構造にそのまま通じるようにも思われたのである。(いうまでもなく、こうした読みは多数の可能な解釈の一つにすぎず、私の個人的な解釈にすぎない。そういう多様な解釈を許容すること自体がまた、ももクロの魅力の一部をなしている。これらの点を含め、詳しくは拙著『ももクロの美学』参照。)


その意味で私にとって特に感慨深かったのは、「空のカーテン」という、去年出た冬用ないしクリスマス用の名曲が、第一部のほぼ中間あたりに置かれていたことだった。それを含むセクションは、バラードを集めたようになっていたが、「空のカーテン」こそは、まさしく日常性を歌ったきわめて秀逸なバラードなのである。(当初は「リンドダーン」という歌詞のみ、やや安易だと感じていたが、今回は舞台演出の面白さが前面に出たこともあってか、あるいは慣れもあってか、あまり気にならなかった。)そうした日常性のこの上ない輝きが、宗教的なコンテクストのただ中に現出してしまうというのは、私には実に感慨深いことに思われた。


(ついでにいうと、あーりんが『音楽と人』でのインタビューで告白しているところによれば、今回の『GOUNN』ツアーは、春のツアーとは違って、ほぼすべて旧来の曲のみを用いて世界観を表現しなくてはいけないところに難しさがあった。しかしそのお陰で、旧来の曲が、新しいコンテクストを与えられ、新たな深い味わいを感じることができたということでもある。)


繰り返せば、以上の解釈は、曖昧な記憶に基づいており、後日発売されるであろうDVDなどによって再度確かめなければならない(楽しみだが)。しかも、以上のように書くと、いかにも理屈っぽいライブであったかように思えるかもしれない。だがそうした印象は完全に誤っている。たしかに第一部はメッセージ性が強く、哲学的でもあり、多少抹香臭いところさえあった。が、けっして理屈っぽい、ないし押しつけがましいという感じはしない。むしろ、ももクロの笑顔のパフォーマンスにも大いに助けられて、また次々に展開しゆく演出の緊張感・期待感にも支えられて、すんなりと入ってきた。この点も、私としては大いに強調しておきたいと思う。


原因の一つは、おそらくわかりやすさを特に意識したということにもあるのだろう。重い内容なのに、絶妙な軽みがある。あるいは春のツアーの難解さに対する反省なのかもしれないが。また演出がよく考えられ、作り込まれていたということもあるだろう。仕上げの素晴らしさが、崇高な哲学を自然に見せた。と同時に思ったのだが、そもそも仏教的な思想自体が、日本人には深く染みついており、だからこそすんなり自然に入ってきたということもあるのではなかろうか。仏教思想の普遍性を否定するつもりは毛頭ないのだが。


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たとえば、「輪廻転生」の四文字を一つ一つばらして、スクリーン上に都合四回映し出した(これは上述の衣装替えによるセクション分けと対応していたようにも思うが、例によって記憶が定かでない)。そしてそれとも関連して、〈因果応報〉のような内容のナレーションも入った。これらはいかにも哲学的なメッセージだが、しかし平均的な日本人にはけっして難解な思想ではない。また〈生きとし生けるものはみな仏性をもつ〉といった、(エコロジーともハイブリッドされた)本覚思想のようなナレーションが入ったが、アニミズム的な伝統に慣れている私たちには、すんなり受け入れられてしまう。


つまりこのような内容のライブは、外国人に理解できないとはまったく考えないものの、やはり日本においてこそ最も自然に可能となり、日本においてこそ最も容易に受け入れられるだろうことは明らかだと思うのである。さらにもしも仏教東漸といった考え方がこのライブに現れていたのだとすれば、同じ仏教圏のアジアの中でも、とりわけ日本においてこそ、一番共感されやすいはずであろう。この事実、すなわち日本だからこそこれほどのライブが可能になるという事実に、私は素朴に、しかし強い感動を覚えた。そこにリアルタイムで参戦できるということの喜びを含めて。私たちは、世界にひけをとらず、世界に真似できない、何か途方もない、ユニークな、しかも一回起的なものを今、ここで目の当たりにしているという喜び。もちろんそれは、外来の要素を模倣していないとか、それを排除しているとかいったことでは全然ない。今回のライブは、インド色も強く、グローバルであり、いずれにせよ排他的なナショナリズムによるものでないのはあまりに明らかだった。しかし随所に散りばめられた和のモチーフ(ももクロが和ないし「J」を追究してきたことは周知の事実である)にも支えられて、日本の今ここの重視という、ももクロにとって本質的だと私の考えるテーマが、はからずも強く意識されたのである。


しかも、第二部を含め、何という振幅の広さだろう。高度で真摯な哲学的内容、聖の極みたる仏の崇高な教説と、一見普通に見える女の子たちのダンス、あるいは俗の極みのおバカな茶番とが、同じ今ここに同居してしまう。何たる面白さ。ここまで大きな振幅をもつアイドル、それどころかアーティストは、他にほとんどいないのではないか。そしてそれこそがまた、日常の中の超越というパラドックスを雄弁に物語っているようにも思えた。


ただし、拙著でも強調したことを繰り返せば、これらは単なるお祭り騒ぎとか気合いとか宗教性とかいったもののみによっては、けっして可能にはならない。明らかに、ももクロのライブにおける魅力を支える最も強力な要素は、厚いノウハウに支えられ、入念に仕上げられた演出であり、ハプニングも含めて計算され、幾重にも媒介され電子化され尽くしたステージ労作であり、繰り返し鍛錬・洗練されたダンスや歌のパフォーマンスである。ももクロがヒットしたのは、暗く疲弊した現代日本が求める、癒しや祝祭、達成感を提供してくれるからだといった説明がしばしばなされるし、私自身もそのようなことを書いた。しかし、それだけではまるで不十分なのである。楽曲、ダンス、演出等、コンテンツの基礎的な優秀さ、作品としての芸術的仕上げ、ウエルメイドな高いクオリティがなければ、今の日本で勝ち抜くことなど到底できない。感動は自発的に見えながら、実は計算され、加工し尽くされている。


さらに、メンバーの歌唱力の向上にも、いつもながら目を見張るものがあった。例によって各人による差もあり、リズムが若干ズレていると思えるところもあったが、音程についてはズレても気にならない程度だった。そもそもあれだけ激しく踊りながらなのだから、そのことだけでも十分特筆に価しよう。またライブ・ビューイングで参戦したのは久しぶりだったのだが、ごくわずかカメラ・ワークが変だった以外、音声も含め、ライブ・ビューイングの技術自体が向上しているようにも思われた。


この点とも関連して、唯一不満だったのは、肝心のニュー・シングル、『GOUNN』(11月6日発売)のメロディーが、あまり芳しくないと思えたことである。当初この度のライブにさほど期待していなかったのは、もっぱらそのせいだった。急いで付け加えなければならないが、同曲の歌詞、編曲、とりわけ演奏は、異論の余地なく素晴らしい。


PV も実に秀逸。高度にハイブリッド的な映像であり、土中(濁世)から現れる蓮華や、曼荼羅、亀と象が支える須弥山などといった壮大な仏教の世界観から、しおりんがもつ仏具(持物)がカレーの容器(グレービーボート)になっているといった笑える細部にいたるまで。他の四人の持物も各々の性格や長所/欠点、趣味に呼応している。ももクロのPVの中でも最高傑作の一つと思えるほど。冒頭の部分は、おそらく震災をも踏まえつつ、末世、末法の世に至ったことを示す表現だろう。そうだとすると、救済者としてのももクロという、拙著で述べたモチーフはいっそう明確になる。また衣装も大変よく、ライブではその美しさがいっそう際立ったように感じた。そもそも上で示唆した通り、インドや仏教ないし西方を中心とする全体的なコンセプト自体、脱帽ものである。ちなみに、知り合いの高名な日本宗教史研究者が、ももクロをまったく知らないにもかかわらず、このPVを見て、あまりの仏教的モチーフの横溢にぶっ飛んでいた。少なくともその研究者に対しては、きわめて優れた「プロモーション」になったわけである。


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そして『GOUNN』のメロディーにしても、一定以上のレベルに達していることは疑いない。まずは(昭和)レトロという点が高く評価されよう。何かを具体的に引用しているという訳ではないのだろうが、強い既聴感を漂わす。昨今の八十年代アイドル・ブームともよくマッチしている。イモ鈞トリオのようなコミックさもあれば、終わりのメロディーはテレサ・テンの『つぐない』から山口百恵の『プレイバック』などなどにいたるまでの汎用性をもつ、いかにも歌謡曲風なメロディー。私は最初なぜか久保田早紀の『異邦人』、庄野真代の『飛んでイスタンブール』のみならず、さらに石川ひとみの『まちぶせ』をおもい出してしまったが。さらに最後の転調のところは、レトロというのとは違うものの、松浦亜弥の『GOOD BY 夏男』の転調の部分にそっくりだとも思った。おそらくこの種の類似は枚挙にいとまがないだろう。もともとそれを狙っているのだから。


さらにいうと、春に出たアルバム、『5TH DIMENSION』における新曲群が難解だったので、それへの反動ないし解毒剤なのか。とにかく今回の『GOUNN』のメロディーは、非常にわかり易い。杏果もインタビューで、「珍しくキャッチー」な曲だと思ったと告白していた。実に覚えやすい、「親しみやすい」メロディーで、一度聴いたら耳に付いて離れない。ただそれは逆にいえば、今までのももクロの楽曲がもっていた心地よい難解さ、錯綜性、独創性、新奇さ、奇想天外、気宇壮大等々を欠くということでもある(ついでにいえば、最後の盛り上がりの転調を除けば、基本的に転調もない)。『GOUNN』は本当に久々に出たシングルだったので、期待度もおそらく必要以上に高く、その点、正直やや物足りなさを感じてしまっていた。たとえば、やはりインド音楽を取り入れた『天手力男』と比較してみてもよい。


残念ながら同様のことは、『GOUNN』のカップリング曲の一つ、怒髪天による『ももいろ太鼓どどんが節』にもいえてしまう。怒髪天は私の最も好きなバンドの一つだし、増子氏の生き方や発言にも大いに共感させられてきた。この曲も、怒髪天らしく、夏らしく、場にふさわしく、大いにももクロらしい。しかしたとえば、似た雰囲気をもつ、同じ怒髪天の『ド真ん中節』と比較してみればよい。笑い、ペーソス、イロニーの要素も含め、見劣りするのは否めない。またこの曲、『太鼓』は、発表の時期(夏祭り)やその和の性格からしても、去年出た前山田健一(ヒャダイン)氏の『ニッポン笑顔百景』に対応するものだが、そして両者とも一過性の曲と割り切っているような感じがする点やそのパロディー性においても共通しているが、両者を比較しても、やはり同様の印象を得てしまう。


試みに、いささか酷ではあるが、過去のこの同じ時期、つまり11月に出たももクロのシングルと比較してみよう(メジャーデビュー以降)。


・2010年11月10日発売:

『ピンキージョーンズ』、カップリング『ココ☆ナツ』『キミとセカイ』

・2011年11月23日発売:

『労働讃歌』、カップリング『サンタさん』『BIONIC CHERRY』

・2012年11月21日発売:

『サラバ、愛しき悲しみたちよ』、カップリング『黒い週末』『Wee-Tee-Wee-Tee』


何たる名作、力作の目白押し。むろん、古い曲の方が耳に慣れているから、よりよく聞こえるということはある。しかし、仮にその分を大幅に差し引いたとしても、どうしても今回のシングルには物足りなさが残る。多くのファンとともに、前山田氏の再投入を切望せざるをえないのは、ないものねだり、ないし余計なお世話だろうか。そのように比較すること自体が誤りだというよくある反論は、確かに一見正論に思えるかもしれない。しかし、ももクロの楽曲はその種のものを含めた無数の比較の網目上で受容されるのであり、またその成長や発展の物語も、比較に基づくファンの期待の地平の上で紡がれる。事態はそれほど単純には片付けられない。


とはいえ、『GOUNN』のもう一つのカップリング曲、『いつか君が』は、紛れもない秀作であり、ももクロの中では新味を出している点でも大いに好感がもてる。秋をテーマにした季節もので、ももクロ・メンバー自身が歌詞の原案を提供。かのmiwaが作詞作曲した。これまでのももクロにはない、爽やかで可愛い女の子っぽい感じ。転調、編曲などもよい。振り付けは今回の宮城で初披露されたが、これもキャピキャピ感があって好ましい。ももクロは最重要曲の『走れ』を超える、ないしそれに代わる曲を求めているというようなことを口にしていた。この『いつか君が』は、季節ものとはいえ、『走れ』や、さらには同じくももクロ自身が歌詞を書いた『あの空へ向かって』などとさえ並ぶ名曲になってゆくのではないかと予感させるほどの意気込みを、個人的には感じた。


もう一度いおう。今回のライブで、再度、再々度、ももクロをまた心底見直してしまった。本当に何度、快く期待を裏切られれば気が済むのだろう。新曲にしても、ライブで聴けばこの上なく素晴らしくなることはもちろんである。別に誇張やおべんちゃらなど抜きに、パフォーマンスも、演出も、満腔の賞賛に価する。何度でも繰り返したい。やはりこの人たちは凄すぎる。


その後、嬉しいニュースが二つ届いた。一つは、いうまでもなく、ももクロの二度目の紅白出場。最近のNHKの動きからすれば、驚くほどのことではないのかもしれないが、あまりにもめでたい。そしてもう一つは、ももクリ(ももクロのクリスマスライブ)の抽選に、一発で当たったこと。これには正直、相当に驚いてしまった。とはいえ今回は、極寒の野外ライブ。正確には西武ドームの中だが、あそこは側面が全部開いているので、事実上野外なのである。なんて無茶な団体なんだ(好)!