家庭で気軽に聴けるクラッシックの名曲全集のようなボックスセットのCDアルバムの宣伝だった。
ポピュラーなクラッシックの曲が割と丁寧に(長めに)紹介されて行く、それぞれのCDにテーマがあって朝とか夜とか快活にとかリラックスとかそのテーマに合わせたチャイコフスキーやらベートーベンやらの曲が流れてくる。
モーツァルトのクラリネット協奏曲の第2楽章が流れてきた。
映画「アマデウス」でサリエリが神がこの軽薄な若造の手を使い曲を書いていると涙した、あの曲。
まさに天上からの音でなんとなく見ていたぼくもいつのまにかその音に引き込まれていった。
ドレミで出来てる音楽というものがこんなに心に入ってくるものなのかとテレビセットの貧弱な音に震えた。
いつのまにか涙を流していた。
そのあと棚の中から同じ曲のCDを探し出しもっとまともな音が出るオーディオセットで第2楽章をかけた。
まあまあだった。
先ほどのような感動というか感涙はなかった。
何かのタイミングに何かが入ってくると人はものすごい感動をしたり、ものすごく嬉しくなったり、ものすごく怒ったり、ものすごく悲しんだりする。
その何かはわからない。
モーツァルトのクラリネット協奏曲の時もあるし、天気雨の空にかかる虹かもしれない。
モーツァルトのクラリネット協奏曲を聴いても、虹が出たからと言って毎回感動するわけでもない。
その時の自分の居場所が違うんだろうか?
ぼくはほとんど涙するということはない。
時々涙が流れるのは犬関係か子供の虐待関連の映画やニュースに接した時ぐらいだ。
男の子は泣くものではありません。
という昭和のしつけがまだ効いてるのかもしれない。
男のくせにすぐビービー泣くやつを信用できないとも思っている。
俳優は自由に涙を流すことができる。
なんならカメラに映っている方の眼だけから涙を流せたりする。
はたから見れば泣いているのだが、自分の内側から泣いているのか、演出でそうなのか見分けはつかない。
逆に涙を流していないからと言って感動してないわけでもないし、悲しくないわけでもない。
悲しい時に子供のように泣けたらと思う時もある。
怒りを感じた時に暴君のようにその怒りのままに発散出来たらと思う。
心が動いた時、流されなかった涙、燃えなかった怒りの炎はどこに溜まるのだろう?
燃料タンクのようにどこかに保存されていくのだろうか。
その他の感情のカスとともにどこかの片隅に置き去りにされているのだろうか。
タンスの奥で何年もぶら下げたままの洋服ははたして洋服の自覚があるだろうか。