フランスにいる時に、
何人かのアフガニスタンの男との子たちと出会った。
その時に初めて、アフガニスタンにも仏教徒がいることを知ったし、
家が仏教でも、日本人の多くと同じでとくに神様を信じていない人たちもいた。
そして、同じアフガニスタン人でもそういった人たちとイスラム教徒のアフガニスタン人とはものの考え方が全く違っていた。
私が彼らに出会ったのは、随分前で亡命者としてフランスにいたのは、ソ連軍が侵攻したせいで国をでた若者たちばかりだった。
彼らの中で、一番親しくしていた、とりあえずお家が仏教という男の子は、お母さんがインド人のパンジャブの出身(でもお母さんは彼が10歳くらいの時に病気で亡くなったそうです)でお父さんはアフガニスタン人でこども5,6人の彼は末っ子で、カブールに住んでいたそうです。
ある日ソ連軍が侵攻してきて、生活は一変し、外科医でアメリカと親交のあったお父さんはソ連軍の監視下に置かれている最中に病気になり床についたままになったとか。インドの病院へ搬送して治療を受けさせてくださいとお願いしたけれど、聞く耳は持ってもらえず、
死が間近という時にやっと許可をもらえたけれど、そのまま亡くなってしまったそうです。
ソ連軍が侵攻してくる前に一番上のお兄さんはすでにニューヨークで生活をしており、もう一人のお兄さんはフランスにいたため、ニューヨークに行こうと、まずは隣国インドのデリーへ行こうと決断したけれど、ソ連軍があちらこちらにいたため、見つからないように家を出て徒歩でインドへ向かったそうです。その時、彼には婚約者がいて一緒に行こうと誘ったけれど、やはりご両親を見捨てることはできなかったらしく、
最後は”僕は他の人を愛することがきっとできるから、君も、僕のことを気にせずに、いい人と結婚して幸せになってください”と言って別れたそうです。
インドへ行くには山を越えなくてはいけなかったそうで、山へ登り
そこで戦士たちと何か月だかを過ごし、機をみて降りたとか。
山中で、ある兵士がなんとメイドインジャパンのコートを持っており、寒いからと彼にくれた物だと、後日私にそのコートを見せてくれました。良い品質のものでした(^^)/
日本製って、どんなところにでも現れるんだと、驚き桃の木山椒の木
でした(*^-^*)
インドへついて、デリーに嫁いでいたお姉さんのお家にいながら、アメリカ大使館にビザの申請を2年間お願いしに生き続けたそうですが、アメリカ大使館の対応は冷たく、パスポートを床に投げ捨てては、アフガニスタン人であることをあざけわらわれるということが続き、2年目にアメリカ行きを断念して、フランス大使館へお願いしに行ったそうです。フランス大使館では、一回目のお願いで亡命が認められ、結局すぐ上のお兄さんがいるリヨンへと彼は行けたそうです。
私が、彼と出会ったときは、彼は、フランス政府からの補助金を断って、ガソリンスタンドで働きながらリヨンの大学へ通っていました。どーしてもお金が足りない時は、そのころフランス人女性とエクサンプロバンスに居を構えていたお兄さんが遊びに来た時に、恥ずかしそうにお小遣いをねだっていました。
でもほとんど自力で、彼は生活をしていました。
とっても苦労した彼は、今はインドの女性と結婚して、男の子2人に恵まれて、一軒家を持つほどに経済力をつけて、幸せに、それなりに元気で過ごしているそうです。
ソビエトが侵攻したせいで、彼や多くのアフガニスタン人の幸せが壊れて、人生が大きく変わってしまった人たちがいたのに、
少し情勢が落ち着いていたのもつかの間、またアフガニスタンが混沌とした世界に戻ってしまいたくさんの人が殺され、また大きく人生を変わらされてしまった人たちが大勢いるのかと思うと、私はフランスで会った彼らを思い出し、とても残念に思います。
早く情勢が落ち着いて、アフガニスタンに平穏な日々がおとずれますように。
PS)
パシュトゥーンの女の子(イラン系民族のアフガニスタン人)
アフガニスタンもいろんな民族と昔から混血しているので、緑の目や青い目の人肌の色髪の毛の色もいろいろだそうですが、成長するにつれて色が変わっていくそうです。変わらないで緑や青の目そのままの人も稀にいるそうです。
ブルカを纏ったりしてるか顔を見る機会は少ないけど、物凄く美人が多い国だと私は思う。
