どくとるマンボウ北杜夫さんは、私の心の扉をいくつも開いてくれたような気がする。


 その扉が開いた事の利点のひとつには、精神病などへの偏見が払拭され、人を見る時にクリアな視界を得ることができるようになったことが挙げられる。


 また、斎藤茂吉さんの事を、文学者として、父として、そして人間として多面的に捉え、時に戸惑いながら分析するところは、私自身の家族への目線を育ててくれたような気がする。また、松本・仙台時代での学生としてつきあった友人や、遠藤周作さんのような畏友に至るまで、多くの友のことを語る部分では、友人の受け入れ方をユーモア一杯に教えてくれたような気がする。


 「アイデンティティー」の確立に悩む高校生には、適度な刺激と、難しすぎない人生の解説が見いだせて、多くのことを「そんなものかも知れない」と、感じさせてくれた。


 そんなこともあって、私が仙台の大学に進学を決めたのは、どくとるマンボウシリーズを読んでいたから、と断言できる。


 浪人して受験していた最中、海外に一年間行っていた父が戻ってきた直後、「この入試は大失敗!確実に落ちたなぁ~」と、入試試験で悪い手応えを感じていた私は早々に駿●予備校の受験をして、寮生活をはじめる手続きまでしていた。そこへ、仙台にある大学(確か、大学本部ではなく、合格電報契約を結んだ大学サークル?)から「青葉城に桜咲く」の電報が舞い込んだ。


 「うそだろ~」


 そう、思って母親にお願いして学割もとっていないのに、新幹線で仙台まで合格発表を見させてもらいに行った。


 雪解けでぬかるんだ芝生を踏みながら合格掲示板に辿り着くと、合格発表が終わって一日たっただけに誰もいない。そこで「1111」という自分の受験番号を見つけた。自分の予感が大いに外れたこともあり、喜びも相半ばであったが、誰もいないグラウンドで、とりあえず、力なく万歳の姿勢をとってみた。


 その後、東京の実家に帰ってからはバタバタである。よもや受かるとも思っていなかったので、アパートや下宿も手配していない。試しにあたってみたが、良い物件は残っていなかった。かろうじて近所のFさんの紹介で、丁度キャンセルが出ていた下宿に入れることが決まった。そして、持ち物を精選し、父親の日産サニーで東北自動車道経由で仙台に引っ越すことも決まった。


 ほっと一息を入れた家族が、私を囲んでくれた。中学校時代、高校受験を失敗して以来、ほとんど父母から目をかけてもらえていないという気持ちを抱いていた私にとって、それは「こそばゆい感覚」に近いものだった。その時はじめて「仙台ってどんなところなんんだ?」という質問が飛んできた。自室から「どくとるマンボウ青春期」を引っ張り出して、いくつかのページを読んで聞かせた。旧制中学・高校を出た父は、「昔の中学や高校はそうだったなあ」と、遠い目をしていた。東京育ちの母は、「そんなもんかね?」という顔をしていた。普段は、家族団らんなどとはほど遠い行動様式を選択し、気まぐれなネコの様に動いている兄貴も、何故かその時だけは同席していてくれた。たぶん、仙台に行く私の送別会のようなものを家族なりに考えてくれていたのだろう。その証拠といっては何だが、その後家族がそんな風に私を囲んでくれたことは全くない。


 しかし、はっきりとした輪郭のある行動をとりたがらない父の方針からか、その日もお祝い的な食事もなく、飲み物も普段通りで、変わったことといったら私が居間に持ち込んだ数冊のどくとるマンボウシリーズであった。


 私の朗読後、それぞれが北杜夫さんの本をつまみ読みし、言葉少なに家族四人での最後の3月の夜が更けていった。それらの本は、私の下宿先となった仙台市青葉区柏木の家まで運ばれた。東北大医学部にもほど近く、北杜夫さんの書かれた内容を味わうには絶好の場所だった。そして、初めての一人暮らしでドキドキする時に、あらためて読み返すには、非常に「優しい」本であった。


 その北杜夫さんが亡くなった。

 無性に寂しい10月である。


 しかし、筆者は死んでも作品は死なない。


 学会や講演が一段落する11月下旬には、どくとるマンボウシリーズを読み直してみたいと思っている。