こんにちは、研究員のぴんです。
雪国の人には申し訳ないが、大変寒くなった名古屋。一気に越冬モード。
この時期なると井上陽水の如くなるぴん。
お元気ですかぁ
お元気ですかぁ
と年賀状に書いております。イメージ井上陽水で(笑)
けっして手抜きコメントじゃないですよ。続くコロナ禍で会ってない人ばかりなのでね。
さてさて今日のお題は
この道より、ほかの道
今年は久しぶりに宗教に対する風当たりが強くなった1年でしたね。
前にも書きましたが、祖母が多神教でしたので考えるところがあるぴんです。
祖母が尼寺に入り浸っていた話は前にもしましたが、幼い頃はぴんも尼寺によく行ったものです。
尼寺🟰女の集まり
ですから、実は歪み合ったり、悪口言ったり、マウントしたり、今思えば結構あったのですよ。
子供の目はクリアですから分かります。
それこそひと昔の尼寺は、未亡人や訳あって未婚の者の身を寄せる場所で、今ほど福祉が充実してなかったというのもありました。女性が今より生計が立てにくいという時代の名残もありました。したがっていろんな境遇の尼さんがいる寺は、
トラブル起こらないわけない(^◇^;)
近年でも、お坊さんやお寺がFXや先物取引で失敗したとか、お布施使って煩悩ありまくり。
真面目やってるお寺さんにはすみません。
人間だもの(^◇^;)
信仰の軸とはどの宗教も崇拝する対象は変わるだけで、正しい行い、心の持ち様が基本で大差ないと思い、その考えは否定しません。
ただ自分の願望を達し満足させるための信仰は信仰と言うのだろうか?
またその願望が自分以外のことなら、更に厄介ですね。
親なら子供の幸せを
子なら親の幸せを
夫婦ならお互いの幸せ
を願ってるぐらいならいいのですが。
子供または旦那が出世して
子供が東大行って
子供が金持ちと結婚して
とかですと、エゴでガチガチになる訳です。
そしてたまたまというか、お子さんの努力により願望が叶っただけなのに、願望が通ると信仰に拍車がかかります。
ですが、他人は自分と違うので、その辺り手放した方が楽になります。他人を思うようにコントロールしたいから苦しくなります。
また他人をどうにかしたいということを、宗教に委ねようということになると、昔なら壺買わされたり、変な札とか買うとことになる訳です。
ここ3年、コロナ禍もあり、また物価高も加わり晴れてアフターコロナを感じるには難しくなりました。
もし今の道が苦しくなった時、この道ではないほかの道があるのでは?と思って欲しいのです。
ただ自分の道を行く人もいまして、先日、知り合いの息子さんが、60歳目前にして難関試験に合格するという快挙がありました。
でもねー。人生のその他のこと犠牲にしたかもです。
この道をそのまま行くか、ほかの道行くか
道がないようで、他にも沢山あったりして
その選択が人生そのもの
ランチタイムのぴんでした。
健康診断前だから3個はやめよう。
2個セットには味噌汁がついてこないのでオプションでつけた。
右端にある、ういろうは喫茶後にいつももらえるのだが、最初からくれと催促した(笑)
あの味噌汁がめっちゃ美味いんですけど。←和菓子屋なのにさ。
