11年前取材相手からのセクハラがきっかけでPTSDになり、放送局の記者を辞めました。

昨日のブログで、相手方も被害者なのではないかと思うことさえあるということを書きました。これについて少し深掘りしてみます。

私は、渦中にある時とにかくあらゆるものに怒っていました。相手方、相手方が勤める官公庁、放送局、家族、友人、制度、そして自分自身に対して…。

でも、時間が経つにつれ、汚れ物を洗い流すように、怒りの根源や本質がはっきり見えてきた気がします。

また、私は過去のことがなければ出逢っていなかった人と結婚し、子どもを授かり、今の仕事に就け、大切な友人たちもできました。言ってみれば、過去の土壌に苗を植え、自分なりの枝葉を張って生活してきました。なので、過去には蓋をしつつも、今の生活を愛おしく思う気持ちと同じ大きさで、過去を受容してもいます。そんな状態なので、相手方には怒りや責める気持ちはかなり前になくなり、感情を切り離して相手方のことを考えるようにもなりました。相手方も寂しかったのかなとか。失うものも、大きかっただろうなとか。

もっと時間を経ると、相手方はもしかしたら官公庁の先輩方から、「女性記者はネタさえ与えれば好きにできる」とか、武勇伝のように「俺は女性記者と何人も関係を持った」というようなことを聞かされてきたのかもしれないとか(具体的に相手方からそんなことを聞いたことはありませんが、私にそんな武勇伝を語る方もいたくらいなので、大きくは外れていないのではと)。官公庁だけの話ではありません。世の中一般的に考えられている「働く女性」へ期待される暗黙の了解(例えば男性を立てるべきとか)も、彼にそういう行動を取らせたのかもしれない。

男性側だけではありません。女性記者側としても、「ネタを取るために我慢しないと…」という認識があったりとか。マスコミも、「記者たるものその程度うまくあしらってこそ」という認識があったりとか。

こういう認識が強く残っている以上、セクハラ行動を取ってしまう人も、受ける人も、それによって傷付く人も、これからもどんどん排出されてしまうのてはないかという危惧があります。

私の案件はたまたま報道されたけれど、特殊な例だとは全く思っていないです。未遂も含めて星の数ほどある案件のうちの、one of themだと思っています。

こんなことを綴っている私も、地方でまだまだ男性優位が残る社会で育ったので、偉そうなことが言えるほど柔軟な考え方を持っているわけではありません。だからこそ、私自身過去のことを振り返りながら、そして最近の案件を見聞きしながら、少しずつ考えを深め、考えの幅を広くしていきたいと思っています。

#MeToo