11年前取材相手からのセクハラがきっかけでPTSDになり、放送局の記者を辞めました。

先日Facebookで「いいね」や「シェア」がしにくい理由を皆さんにお尋ねしていました。それに対して、「リアクションをするとセクハラへの意識が強い人=扱いづらい人 という見方をされる恐れがある」という声を寄せてくださった方がいました。(ありがとうございます)

そうですね、確かに。私も、「セクハラで病気になった人=配慮が必要な人」とか、「=仕事で無理をさせられない人」という見方をされるのがイヤで、昨年まではほとんどの方にオープンにしてきませんでした。オープンにするきっかけになったのは、「病気だった過去を感じさせない人という信用を、周囲から勝ち得ることができたかな」と自分なりに実感が出たことがきっかけでした。

セクハラは、構造的に痴漢と似てると思っています。多くの場合ケガさせられるわけでもないし、出来心やイタズラと捉えられがちだし、アウトとセーフの差が曖昧。

でも、痴漢とセクハラの違いもあります。痴漢は犯罪という認識が広がっているけれど、セクハラは犯罪とまでは認識されていないというのが大きい差ではないかと思います。痴漢が犯罪という認識になってから、冤罪も生まれて映画にまでなっています。痴漢と間違われないように、両手を上に上げて電車に乗るとか、そもそも電車に乗らないようにしているとか、過剰な反応も生んでいる副作用もあります。セクハラも、声高に訴えることで、過剰な反応も招くことにつながるかもしれません。「やっぱり女は使いづらい」などという声も、聞こえてくるような気もしています。

それでも私が発信を続けたいと思う理由。それは、セクハラの域を超えて例えば障害の有り無しとか、そういうものにも発展することだと思うのですが、その人の外見やスペックばかり気にせず、相手の人となりを理解しようとする、ある種の相手への敬意が大切なのではないかということを、過去の経験を通して伝えていきたいというところに帰結する気がしています。行為に制限をかけるのは無理もあるし窮屈です。これからも、私なりの動機を大切に、発信できたらと思っています。