11年前取材相手からのセクハラがきっかけでPTSDになり、放送局の記者を辞めました。
これまでに「孤独」という言葉を何度か使いました。セクハラ後放送局に相談をしてから、報道の最中、放送局退職後、回復までの過程も、孤独は常に感じていました。
今日はその中でも印象的だった、報道渦中の孤独について思い出したいと思います。
会社にセクハラを相談してから確か一ヶ月ほどしてからPTSDの症状に苦しみ、入院しました。それから1週間もしなかったと思います、当時の部門責任者から電話がかかってきて、明日のニュースで私の案件が出ると言われました。
何度かセクハラを報道すべきではと上申しても動きがなかったのにと、はじめは驚きました。報道の理由は、他社が情報を入手したので、自社としても報道せざるを得ないとのことでした。
事実関係を3点ほど確認されました。そして、知り合いの記者から取材の電話がかかってくるかもしれないけど、一切電話には出ないことと指示されました。
病院で全放送局のニュースを見ました。他社が全国放送したり、セクハラ現場となった場所から現場レポートするなどして扱っていましたが、私の放送局が最もあっさり取り上げていたように思います。私は自社の記者であると報じて欲しいと話しましたが、もちろんそんなことは触れていませんでした。原稿を読んでいる一つ上のアナウンサーの先輩が、とても遠い存在に感じられました。
今では会社なりの配慮だったのだろうと思うのですが、当時は自社の記者と報じてくれないこと、ニュースの内容には食い違うこと、認識と相違のあることもあるのに、取材に応じることもできず、当事者なのにその中に入られないもどかしさ、孤独感を感じていました。
電話に出たくなるかもしれないと思い、携帯電話はナースステーションに預かってもらっていました。電話を受け取ったのは報道の二日後くらいでした。たくさんの着信の中に、他社の記者からの励ましの留守電や、ナースステーションにはまた別の他社記者からの届け物も届いていたりで、緊張の糸が切れたように泣きました。
結局間違った報道内容に対し、後日訂正を求めることもできないまま、あっという間に私の案件は世の中から消えました。貝になる、そんな言葉を頭で何度も言い聞かせては、納得できない私は、世間から忘れられてもずっと、憤りを続けていました。