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この数字を見ると
何となく意識してしまいます(^^;
今日は震災発生日から5年です。
もう5年?
まだ5年?
私には遠い昔の事のような感じがしています。
あの日のあの時、私は車の中で信号待ちをしていました。
橋を渡ってからのその道路はちょっと下り坂で、激しい揺れにサイドブレーキを引いても前の車にぶつかりそうで必死にブレーキを踏んでいました。
電線が切れそうなぐらいに振られていて、直ぐに信号は停電になり消えました。
先方には小学一年生の子供数人が下校中で、私も心配になりましたが近くにいた男性が子供達を座らせ側に着いていてくれてました。
その瞬間の私の記憶はそんな程度です。
思い出しても無音だし、3回揺れたらしいけど私の記憶はありません。
多分ですが…凄すぎて必死だったのかなと思います。
でも、今でも車の中で地震にあうと思い出しますね。。この子ども達や必死にブレーキを踏んでいた自分を。。
私がいた場所から、真正面の一本道の先には海がありました。
ただの道路ですから遮る建物もありません。津波は勢いのままここをのぼってきたと思われます。
その後は会社に行ったり支店によったりして、自宅へ帰ろうとしていましたが渋滞が酷くてなかなか進みせんでした。
車のラジオは付けていたけど耳には入って来てませんでした。
ふと周りを見渡すと、ある会社の方々が走っていました。その場所から近い訳ではない会社の方々です。疑問に思っていたら対向車の方と目が合ったので窓を開けました。
「津波が来ている」
え??と思い海の方角を見ました。もちろん海など見えなく建物しか見えないのですが…
パシャパシャとまるで波打ち際のような小さな波がもう来ていました。
私はまた対向車の方に顔を向けました。きっと不安な顔をしていたのだと思います。
「慌てないで、Uターンできるならして!もしどうにも出来なくなったら車の上に登りなさい」
そう言われた直後に車ごと流され始めました。
近くにいたワンボックスカーから中学生ぐらいの子供達がドアを開けて「まだ死にたくない」とシートにしがみついていました。その子のお母さんが「なーに言ってるの!」ときっと日頃の口調でなだめようと言ったのだと思いますが、私と目が合ったお母さんは不安な顔をしていました。
私も必死だったけれど、一言声をかけてあげられなかったこと申し訳なく今もあのお母さんがの顔が思い出されます。
大きな渦の中でくるくる回っている車もいました。もちろん中には人が乗っていました。
スーっと凄い勢いで流されていた人も見ました。
車に水が入ったら窓が開かなくなる。
それだけは頭に浮かび、運転席と助手席の窓だけは全開にしましたが流されながらどんどん水が入ってきます。
私が流されたのは車屋さんがある方角でした。展示車両は窓が開いてない為プカプカと浮かびながら流されてきます。
私の車とぶつかりながら、何台も何台も流されてくるので私は挟まれないように運転席と助手席の窓に交互にせまい車中を逃げ回ってました。
どんどん水が入り沈没寸前の私の車を諦め、屋根に登り「浮かんでいる」車の屋根へと飛び移りました。何台か飛び移りましたがあまり覚えてません。
あの日、あの頃の記憶は断片的なのです。
次の記憶は、斜めに引っ掛かった車の屋根にポツンといる私です。
雪が降りだして寒くて呆然としていました。その時、ポケットから着信音が聞こえました。脱出する時に無意識に携帯だけ持ち出したようでした。
電話の相手は姉でした。
「助けて 助けて 助けて」
呆然から抜け出し、正常を通り越し、パニックになってしまいました。
姉と喋ったことでやっと正気になりました。自分一人でいるより、誰かと一緒にいた方が良いと助言され遠くに私の様に車の屋根に取り残された方々の元へと向かいました。
向かうと言っても、車の屋根や瓦礫を飛び移ることしかできません。
途中、上手く移れず何度か腰から下が水に浸かりながらも何とかたどり着きました。
ソコに居たのは、生後半年程度の赤ちゃん・妊娠中のママ・そしてお婆ちゃんでした。
皆で脱出方法も考えましたが、私の身長ほどのすいいさがあり、また寒くて泳いで安全な場所までは体力が持ちそうにもありませんでした。
もっと水が引いたら行こうとしていましたが、少し引いた水がまた津波が来たのか水位が増して車の屋根が少しづつ狭まって行きます。
また流される…
この時が一番の恐怖でしたね。
この頃から焦りが出始めました。
幸いに私がいる場所から陸地へは大声が届く距離でした。
何度も何度も助けてと叫びました。
赤ちゃんがいること、妊婦がいることは伝えました。
数名の方々から頑張れと声をかけてもらえてました。
日もくれ、寒さが増し星空がキレイでした。
途中、自宅の母と電話が繋がり私の状況を伝え娘を頼むと言いました。
寒くて寒くて、朝まではもたないと…凍死するとある意味覚悟を決めた瞬間でもありました。
娘からは大丈夫?とメールが来ました。
今夜は帰れないけれど大丈夫だから心配しないようにと返信しました。
時間だけが過ぎて、あかは泣かなくなってきました。眠いのとミルクも無いから体力が消耗してきているのが感じられました。
唯一の確認は、携帯で照らして目を開けたのかを見るぐらいでした。
お婆ちゃんは、吐き気がひどくなってきてました。出る物もないのに何度も何度も吐き気を催してます。だんだん体がだらんとしてきてひとりで座っても要られません。
私が抱きしめるように両腕を私の両肩にのせて、ずっと体を指すってました。
不安な時、心配な時、恐怖を感じた時、ずっと「助けて」と叫んでいました。
何度も何度も叫んでいました。
でも、ずっと応えてくれている女性がいました。
「頑張ってー」
これがどれほど心の支えになったか…
何時間かして当日中の深夜にボートが救出にきてくれました。
瓦礫やら、民間の柵が膚ばかり何度もいろんなルートを行ったり来たりしながらやっと私たちの元へと到着しました。
真っ暗な中、自分の居場所を教えられたのは携帯の灯りでした。
ボートに乗ってもまだ安心出来ませんでした。
やっと土手につき、裸足で登って平坦な地面に着いた時ホッとしたのか泣き崩れてしまった私。
そんな私を焚き火の元へと肩をひいて連れていって下さった男性。
裸足の私に段ボールをひいて下さった方。
大丈夫?と隣で声をかけてくれた聞き覚えのある女性…
ずっと応えてくれてた方でした。
あなたが居なかったら。。ありがとう
そう言うのが精一杯でした。
あなたが居なかったら、きっと私諦めてました助かることを。
その女性は看護士さんらしく?一緒に助かった赤ちゃん・ママ・お婆ちゃんとともに病院まで付いてきてくれました。
焚き火の所にいた男性が、車で送ってくれて裸足の私に靴をくれて毛布までかして下さいました。
たくさんの方々に助けられ私は生きることが出来ました。
ボートの到着があと数時間遅れていたら、深夜にきた津波によって確実に私は流されていたようです。
車の屋根に登る様に言ってくれた方、言われなかったらきっと上らなかったと思います。
本当にたくさんの方々のお陰で今日も生きています。
本当は会ってお礼を伝えたいのですが、何処の誰かも分からずじまいなのでここで…
ありがとうございました。
後に分かったことですが
地震が起きた瞬間に見た小学生の子どもたちは無事に帰宅し、津波にからは逃れられたそうです。
偶然にもその子に会う事があり、無事を知り嬉しくて泣きました。
ワンボックスカーの子どもたちも、どうか無事でいますように。。
