先日、映画 レ・ミゼラブル を観てきました。
こういう話だったか・・・。 レ・ミゼラブルにはじめて触れたのは小学生の時。
学校の推薦図書だったか・・・でも劇でみたような記憶も、、、。
ヴィクトル・ユゴーの名作で、ミュージカルでもロングランを続けている
とても有名で根強い人気の作品を映画化したものなので、いわゆる普通のセリフというものはなく、ミュージカル仕立てで旋律にのせた言葉がセリフになっています。ですが想像以上に違和感がまったくなく楽しむことができました。
オーラソーマのボトルで言えば59番 レディポルシャのテーマに
「裁くことなかれ 裁かれないために」 があります。
それはどういうことなのかを、今再び深く考えされられ、
そのお手本を主人公のジャン・バルジャンはじめ、関わるあらゆる登場人物のあり方を通して見せてもらえた内容でした。
自分の心や人生に傷を負わせる原因になった人物を許すことは
ほかでもなく 自分自身がそこで背負った罪を許すこと
言葉でいうのは簡単です。
そうありたいと思うし、できると、人間の感情の複雑さやネガティブなエゴの支配力の強さを心底わかっていなかった時分は思っていました。
でも実際は、そう簡単なことではありません。
ここ数日の自分の日常を振り返ってみただけでも、ちょっとした会話や出来事に憤慨したり傷ついたり。
そして私にそんな思いをさせた人物や出来事を、「許せないっ」と思う。
同時にそんな短絡的に反応してしまう自分を責めてしまったりしてる。
レ・ミゼラブルの主人公である ジャン・バルジャンは、妹の子どもに食べさせたくて盗んだ一切れのパンの罪で17年も投獄され、仮釈放となって自由の身になった時、牢獄で虐げられた経験やその人物への恨みを決して忘れないと誓います。
仮釈放の身に、世間はとても冷たく残酷で、投獄中と変わらないほどの辛辣な侮辱や差別を浴びせられる日々。
そんなある日、ひとりの司祭に深い慈悲を与えられたことによって心を悔い改め、真人間になるべく善行を重ねていきます。
人々を許し、救済する善行の積み重ねの年月は、
「かつての自分自身の罪を許し、救済する」道のりにほかなりません。
にもかかわらずジャン・バルジャンは、どんなに善行を重ね、人々から信頼を得尊敬される人物になっても、かつて犯した罪ある過去を完全に解放し心の安寧を得ることはできず、いつも内側に葛藤と深い孤独感からくる悲しみを抱えています。
究極の選択に迫られる度に、「私は誰か」と神や自分自身の内側に問いかけて、
(私自身の解釈ではおそらく)高次の自分自身とつながり続けることを通して
自分自身の高潔な真実の道を歩んで生きます。
そうやって積み重ねてきた善は、周囲の人々の意識にも光をともし、
やがてたしかな結晶となってジャン・バルジャンのもとにかえってきます。
そして天に召される間際に、
「すでに自分自身は許されている。憎しみではなく愛の種をまき続けることによって、実は孤独ではなく、人道的な人生をまっとうすることができたのだ」と理解し、
愛の温かさに包まれて深い平和のなかで旅立つことができたのでした。
ジャン・バルジャンの生き様は実に見事です。
何故そこまで自分を追い詰めてしまうのか?
もうそれだけやれば十分。もう許していいよ。
私は心のなかで何度も劇中のジャン・バルジャンに言葉をなげかけました。
そもそも人のなかに巣くう罪悪感は、その人自身が評価するものなのでしょう。
許すも許さないも、解放するもしないも、結局のところ自分で決めるもの。
自分以外の誰かの働きがけ次第ではない。
けれどジャン・バルジャンのように、係わる相手のなかにある邪心や間違った正義を自分のなかにもあるものとして許し、解放させてあげる行為は、まさしく自分のなかにあるものに向けている行為。
ジャン・バルジャンは「蒔いた種を刈り取る」法則の通り、
憎しみの種を慈愛の種に交換することによって愛の結晶を自分のなかで育て続けていた結果、大きくかけがえのない愛を人生で受け取ることができた。
相手を許すことは、自分自身を許すこと。
この映画を観てから、私の内側と外側で
何度もそのテーマがリフレインしています。