今回は兵庫県の屈指の堅城であり、続日本100名城である「黒井城」を紹介します。
この城を有名にしたのは「丹波の赤鬼」と異名をもつ赤井直正は明智光秀軍を撤退させました。二次の戦いでは赤井直正は亡くなり、弱体化し、明智軍の勝利に終わります。
この城は歴史と堅城だけでなく、石垣もみられるのも人気の1つです。
兵庫県で石垣がみられる山城は「竹田城」、「利神城(りかんじょう)」などがあります。
■第一次黒井城の戦い
開戦までの経緯
1570年3月
赤井直正(当時は荻野直正)は織田信長に拝謁した服命し、氷上郡、天田郡、何鹿郡の丹波奥三郡を安堵を得ました。
ところが山名祐豊は、氷上郡にあった山垣城を攻めました。
黒井城の赤井直正と赤井忠家は山垣城に救援に向かい山名祐豊軍を撃退しました。
その後勢いにのって、但馬国の竹田城を落城させると、山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫りました。
1575年、山名祐豊からの援軍要請を受けた織田信長は明智光秀に丹波国征討戦を命じました。
1575年10月1日
信長は、丹波国人に領土安堵の朱印状を出して、丹波の有力者多紀郡八上城の波多野秀治をはじめ、丹波国衆の過半は光秀方についていました。
合戦以前に有利だった光秀は黒井城の周囲に12、3か所の陣を築き、黒井城を包囲しました。
1576年1月15日
攻城戦開始後2か月以上が経過し、波多野秀治軍が突如謀反を起こし明智軍の背後を攻撃しました。
結局、明智軍は体勢が崩れ、退却することになりました。
------------------豆知識---------------------------
第一次黒井城の戦いでは丹波奥深くに誘い込んだ敵方を一気に殲滅させる「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれていますが、波多野秀治との密約があった事実がないため、呼び込みという言い方は適切ではなく、赤井軍が籠城のがんばりをみて、波多野秀治がここで赤井氏につけば明智軍に勝利できると思ったからだと思います。
第一次黒井城の戦いで、赤井直正は異名「丹波の赤鬼」が有名となりました。
当時は荻野直正であるため、赤井から赤鬼ではなく、お揃いの赤い鎧を着用していたため、赤鬼と呼ばれました。
----------------------------------------------------
■二次黒井城の戦い
1577年1月
光秀は丹波攻略の拠点となる亀山城を築城し、第二次丹波攻めを開始し、「籾井城」・多紀郡内の城11か所を落城
1578年3月9日
赤井直正がに病死、黒井城を継いだ嫡男の直義は僅か9歳
4月10日
光秀は滝川一益・丹羽長秀とともに、荒木氏綱の荒木城(細工所城)を落城
9月
波多野氏の八上城攻めに着手し、多紀郡と氷上郡の郡境に金山城を築き、波多野氏と赤井氏の連携阻止
1579年5月5日
八上城の支城である氷上城が落城
6月1日
八上城も開城、波多野兄弟らは降伏
→黒井城は八上城からの補給路が断たれる
8月9日
城主自ら火を放ち敗走し、丹波征討戦は終了
山城記事を以下にまとめましたので、ご覧ください。
-
目次には次のような記事が書いております。
-
ブータンの光と影シリーズ ~ブータンは本当に幸せか?~
下をクリックで読者になって下さい<m(__)m>
ブログを書く励みになります
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。