1~2月にかけてリベリア・シエラレオネ・ギニアを13日間旅行しました。
旅行会社の初企画ツアーで毎日トラブル続きでした。
今回はリベリア旅行2日目を紹介します。
リベリアはいい観光地が少なく、今回でリベリア紹介は終了です。
観光の前にガイドさんの説明の紹介です。
リベリア登録は船籍のバーゲンセールをして荒稼ぎしている国です。
外貨は入っているのですが、国民に還元されておらず、今もなお最貧国の1rつ。
ごこに外貨はいってるのでしょう・・・笑
2019年時点では保有船腹量243,129千DWTで、世界3位。
ちなみに1位がパナマ(333,337千DWT)、2位が マーシャル諸島(245,763千DWT)です。
以前はリベリアが2位でしたが、マーシャルの猛追で追い抜かされました。
しかし、量はほぼ同じくらい。
観光の前にガイドさんに質問して回答してもらった内容を紹介しいます。
最貧国という関連で質問でわかったこと。
・貧しい人はお昼にバナナ2本のみ(1日1食)
・給料は公立小学校の先生:133USD/月
※私立だと50USD/月と安い場合が多い
・ガイドさんの生活費(妹と二人暮らし)
賃貸料(首都中心):100USD/月(1DK)
※郊外だと50USD/月
電気代:40USD/月(テレビ、冷蔵庫、扇風機程度)
水道費:20USD/月
インターネット通信費:20USD/月
携帯使用費:10USD/月
※インフラ系は日本の半分くらいですが、給料は約25分の1
ガイドさんは妹と折半しても100USD/月の支出。
リベリア1日目(最終日)の観光の紹介です。
午前にはシエラレオネへ空路移動しますので、反日観光です。
観光場所
①ウォーターサイドマーケット
②プロビデンス島(アメリコライベリアン初居住地)、コットンツリー
③プロビデンス教会(入場禁止、外観のみ)
④デュコールホテル&初代大統領銅像
これから観光の紹介です。
最初にウォーターサイドマーケットです。
道が混んでいるちのことで、マーケットが一番になってしまい、8時ぐらいで人がいないです。
10時ぐらいから混んでいるとのこと。
道は混んでませんでしたので、ガソリンを一番使わないルートでした。
こんなところで、リベリアのガイドのイマイチさを感じたところです。
お店はとじていて、閑散としています。
このあたりは商売の準備は始めたころです。
道は水はけがわるいです。
またもやガイドさんはガソリンを使いたくないみたいで、同じ道を帰ってきました。
こんな空いているのに、マーケットでは同じ道を歩きたくないです。
ドゥ川の中洲にあるプロビデンス島の観光に来ました。
ドゥ川を橋で渡ります。
丘の上にあるのは最後に観光したデュコールホテル(ドゥコールホテル)です。
木があるところが中州のプロビデンス島です。
ここがプロビデンス島です。
スロープでプロビデンス島にいけるようですが、入口で閉鎖されてました。
プロビデンス島はアメリカの奴隷解放された黒人88名が最初に定住した場所です。
この移民者によってリベリアの独裁政治が始まり、ここからリベリアの歴史が大きく変わります。
中央のビルがアメリコライベリアンの初政府庁舎。今は廃墟です。
橋での通行量は多いです。
橋のふもとにあった中国ビール”青島(チンタオ)”の看板。
ここも中国人が多いです。
次にプロビデンス教会の見学に来ました。
教会の横は靴売り、靴磨きの人が多いです。
プロビデンス・バプティスト・教会の看板。1821年建立。ここで、1847年の独立宣言の署名がなされました。
外観はアメリカのコロニアル調。
アメリコライベリアンはアメリカのプランテーション様式の家、コロニアル調教会や服などのアメリカ文化をこのリベリアに。
さらにアフリカにフリーメイソンをつくりました。
「ぼくらは洗練された人なんだ」と現地民に知らせしめ、暗黒の独裁政治をしたのでした。
この独裁政治を現地民が倒すのですが、権力について現地民が富を独占したため、リベリアの内戦につづくのでした。
ここが一般的な話で、実際はアメリカが裏にいました。ここからはガイドさんも知りませんでした。
アメリコライベリアンを指導し、入植~独裁政治~独立まで糸をひいていたのはアメリカ植民地教会。
この教会は解放奴隷をアフリカに送り込み、アメリカの遠隔統制地をつくりました。
この提唱者の一人がなんと、エイブラハム・リンカーン。
エイブラハム・リンカーンは偉人といわれてますが、黒人奴隷解放は建前で、実際は南北戦争で勝つためで(南部の黒人奴隷兵士を解放すると戦争が有利になる)、その解放奴隷をつかってアフリカへの進出と、リンカーンは偉人ではなく、黒人奴隷を建前に世界のアメリカ、アメリカファーストを体現しようとした政治家と思います。
話を戻し、アメリカは解放黒人奴隷をリベリアに多く、教会、リベリアは主権国家でもなくまた歴とした主権国家の植民地でもなかったので、外国(特にイギリス)からの脅威に直面したため、協会は1846年までリベリアを統制し、その後イギリスが植民地を併合するかも知れないという認識で、リベリアに独立を宣言するよう指示した。
1847年、植民地は独立国家リベリアとなりました。新しいリベリアの憲法はアメリカのものを雛形にして作られたと言われています。
教会前の通り。
丘の上にあったデュコールホテル(ドュコールホテル)。今は廃墟です。
デュコールホテルはインターコンチネンタルホテルズグループが、1964年から建設が始まり1967年に完成させ、リベリア最大を誇る高級ビジネスホテルでした。
しかし、1989年以降の内戦により破壊され、内戦終了後の2006年頃から、リベリア政府が廃墟となったホテルを新しく修復しようと計画しているが、コストなどの問題で何度も延期されています。
2010年にリビア政府がホテルの修復計画の支援に乗り出していたが、アメリカ、イギリスなどがリビアにいちゃもんをつけて石油などの資源を占領し、リビア内戦だけでなく、周囲国の治安も悪化しています。
リビア内戦の影響とカダフィー大佐が亡くなったため、リビアからの支援は凍結されています。
下が廃墟となったホテル。
ホテルの横にはリベリア初代大統領ロバーツ。リベリアの建国の父と呼ばれています。
ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ(1809年3月15日~1876年2月24日)はアメリカバージニア州ノーフォーク農園主の妾アメリアから生まれました。
農園主はアメリアと彼女の子供たちを早くから解放しました。
母は白人と結婚し、ロバーツは黒人ながら、きちんと教育をうけ、育てられました。
1829年、20歳の時に母が住んでいるリベリアに移住し、すぐに貿易業者として繁盛し、政治にも関わっていきました。
貿易で得た資金源に、リベリア連邦結成後の1838年に副知事に、1841年に知事に1847年にリベリアは独立を宣言し、大統領選挙で初代大統領になりました。
次回はシエラレオネの首都市内観光を紹介いたします。
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