l2moni7075のブログ

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私の母は、樺太出身の美人だった。19歳で結婚し、

私を産んだ。その後、1年半後に弟が生まれ、

2年経つと妹が生まれた。3人とも樺太で生まれた。

 

母の父は薬剤師であったが、母が9歳の時に

糖尿病でなくなり、母の母、つまり私の祖母は、

婚家から出された。母は祖父母に育てられた。

 

樺太高女を卒業後、美人の母は、すぐ金持ち

だった父の目にとまり、結婚した。

 

戦争後、私たち一家は、東京に引き上げてきた。

父は貿易会社に勤務。その貿易会社が

三井物産の一部となった。だが、父は42歳

という若さで、脳溢血に。その後も、物産で

働いてはいたものの、脳溢血を再発し、

50歳という若さで亡くなった。

 

私の母は、親に育てられた経験はなく、しかも

夫を36歳という若さで、失い、その後、90歳で

亡くなるまで、独身であった。ずっと美しさだけ

は保っていた。

 

父が建てた家に弟が住み、母は彼の一家と暮らし

た。私なら、一人で父と建てた家に住むのだが、

と思った。

 

母は肉親に恋焦がれていたのだ。一人前に、

嫁いびりもしたが、何よりも

孫たちといることがとても嬉しそうだった。

 

私なら、一人で住むわ、と思ったのだが、

弟夫妻と特に仲が良くなくても、肉親がよかったのだ。

 

祖父に育てられ、金銭的な苦労はしなかったが、

親に育てられなかったという経験が、家族と

いたいという強い気持ちがいつもあった

ようである。

 

私も妹も、アメリカで結婚していたので、

弟が母と住んでくれたことを感謝している。

 

しかし、死ぬまで、母には孤独感がつきまと

っていた。美人で、買い物好き。でも、

36歳で未亡人になるなんて。

 

私が結婚したのは、35歳だった。第2の人生は

35歳で始まったに、母は36歳で未亡人に。

寂しかっただろうね。今なら、再婚しても

おかしくないのに、母が未亡人になった時には

そういう風習は、日本にはなかったのだ。

 

母がくれた箸箱の裏に「すみ子さん(私の名前)

今日、75歳になりました。散歩をしてきました。気持ち

がよかった」と書いてありました。やっぱり、

孤独感がみなぎっていた、箸箱の裏の文章でした。

 

 

写真は、左から、母、父、私、父の弟(京都大学に

行っていたので、京都叔父ちゃんと呼んで

いました)。昭和16年くらいの写真。

 

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(私の著書、英語学習書です。

『アメリカの小学校では絵本で英語を教えている』

       (  ガイデッドリーディングについて)

 

『アメリカの幼稚園ではこうやって英語を教えている』

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